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サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ―最近の日本映画とその海外展開(中)

元国際交流基金 吾郷 俊樹

1.はじめに―『スパイの妻』、ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞受賞!

丁度、本稿を書いているときに嬉しいニュース。ヴェネチア国際映画祭で黒沢清監督の「スパイの妻」(太平洋戦争の直前に国家機密を偶然知って、正義のために世間に公表しようとして反逆者と疑われる夫と「スパイの妻と罵られながらも愛する夫と手に手を取って生きていこうとする」妻の物語。NHKのBS8Kで放送されたドラマの劇場版化。黒澤監督最初の「時代劇」。)が銀獅子賞(監督賞)を受賞。新型コロナウイルス感染症の影響で現地入りできなかった黒沢監督は授賞式にビデオメッセージで、「この年齢になってこんなに喜ばしいプレゼントを頂けるとは夢にも思っていませんでした。ほんとに長い間、映画を続けてきてよかったなとしみじみ感じています」と喜びを語り、授賞式のあとの記者会見では、審査員長を務めたハリウッド女優のケイト・ブランシェットが「すばらしい監督による映画はいくつもあり難しい決断だったが、最終的にはこの作品が監督賞だということは明らかだった」と述べ、黒沢監督を称賛。日本の監督がヴェネチア国際映画祭で監督賞を受賞するのは2003年に北野武監督が映画「座頭市」で受賞して以来、17年ぶりの快挙。

「現代社会に生きる人たちの不安などを描き、映画界の巨匠、黒澤明監督にちなんで『もう一人のクロサワ』とも称されて国際的に高く評価」されているという黒沢清監督(1955年~)は、1982年の邦画興行収入1位の薬師丸ひろ子主演「セーラー服と機関銃」で助監督デビュー。1997年、役所広司主演の「CURE」(「マインドコントロールを使って猟奇殺人を続ける男と、事件を追う刑事」のサイコサスペンス。フランス、「ル・モンドの映画評論家、ジャン=ミシェル・フロドンがこの『CURE』を東京国際映画祭で観て大絶賛」、これにより黒澤清監督は世界の注目を集め、以降の黒沢監督の長編作品はフランスで全て劇場公開されているという。

カンヌ国際映画祭では、2001年に「回路」(インターネットを媒介して人々が消えていくという恐怖を描いたサスペンス・ホラー。)が国際批評家連盟賞を受賞。2008年には、父親の解雇をきっかけに、家族の秘めた思いがあらわになっていく人間ドラマ、「トウキョウソナタ」でカンヌ国際映画祭の「ある視点部門」の審査員賞受賞。さらに2015年には、失踪後、死者として戻ってきた夫を妻が受け入れ、一緒に旅を続けるという「生と死の境を超えた」不思議な人間ドラマ「岸辺の旅」でカンヌ国際映画祭の「ある視点部門」の監督賞を受賞。

昨年のトロント国際映画祭(北米で最大の規模。アカデミー賞を狙う作品がお披露目されることも多く、世界的な注目が集まる。)で、黒澤監督は、海外での反応について、「トロントの人は映画を観てわかりやすく反応してくれたり、フランス人は「これはああいう意味だ、こういう事だ」とか言葉で解説したり、国によってあるいは人によっても映画を見るときの姿勢が違うのだなと感じます。ですが、よく見てみると同じように怖いところでは怖がり、感動するところでは感動し、笑うところでは笑っているようなんですよね。国によって色んな反応がありますが、心の動きは同じだなという実感があります。」、「私も色々な国の映画を観ていますが、言葉が全然通じない国の人にも、映画は意外と通じるのだなと感じます。映画は世界共通の表現なのだということを何度も経験していますので、言葉にできる何かを伝えたいということはないんです。」と語る。

写真:9月のヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した黒澤清監督。2019年のトロント国際映画祭、Japan Film Night」にて、国際交流基金提供

今回は、10月号でもご紹介したような国際映画祭などで評価されている日本映画を世に送り出した監督を御紹介。

2.日本の映画監督

誰をご紹介すべきかは実に悩ましく、異論もあるかと思う。

(1)小津安二郎監督(1903年~1963年)

「ローポジションやカメラの固定といった“小津調”と形容される独自の技法」で、原節子、笠智衆、杉村春子ら同じキャストで同じテーマの作品が多く、「俺は豆腐屋だから豆腐を作るだけ」と語ったという小津監督。国際的な賞を取ったわけではないのに、外国で日本映画祭などというと、きっと小津作品をどうするかとなる。「普通の戦後の日本の家族の問題を扱っているのに、ドメスティックなものにならず、…非常にインターナショナルな存在」だと、音楽家の坂本龍一も語る。

検閲が行われていた戦中、監督になるための内務省の試験があったという1943年、黒澤明監督のデビュー作、柔道の素晴らしさを知った主人公姿三四郎が、柔道を通じて人間的に成長していく姿を描いた「姿三四郎」の審査の際には他の検閲官から批判がある中、検閲官だった小津監督が「100点満点として120点」として絶賛し後押し。その公開につながったという。

1949年の「晩春」(「小津作品でしばしば登場する、結婚を巡る父と娘の物語をこれが最初となる笠智衆、原節子の共演で描く。」)を見た黒澤明監督も「独特のキャメラワークでずいぶん外国でもマネしている監督も多いし、小津さんの映画は海外ではちゃんと見られているんだ。学ぶところが多いからね。日本の映画を志す若い人達にもどんどん観てほしいですね。」と語ったという。

小津映画に出演した高峰秀子は、「小津組から声がかかるということは、俳優にとって一つの『名誉』であり、小津作品に出演したということは、「俳優としての免許皆伝」を受けたという証明になるほどであった。」という。そして、共演した笠智衆について、「沈着そのものの笠さんは、いつも本番で震えた。私はその笠さんを見てギョッとなり、あげくはその震えが自分にも伝わってくるのを感じて、いまさらながら小津先生の恐ろしさを知るのだった。」と語り、岩下志麻は、「失恋して無言で巻き尺を手で巻くシーンでは百回くらいのテストがありました。」、「百回の間、先生は何がダメなのかおっしゃらない。」、「『人間は悲しいときに悲しい顔をするものではない。人間の喜怒哀楽はそんなに単純なものではないのだよ。』。この小津監督の言葉がそれ以後、私が演技で悩んだ時の原点になっています。」と語る。小津監督の下で助監督だった今村昌平監督も、小津監督について「温和さの中に近寄りがたい厳しさがあり、撮影所では天皇のような存在だった。そうなると、小津組にいるというだけでスタッフでも所内では特別扱いであった。小津組のセットは匂いからして他の組とは違う。」と語り、「羽田ロケの時、遅れてきた鶴田浩二を叱った時の小津さんの顔だけはよく覚えている。『車がエンコしまして。』と言い訳をする鶴田を幼児に父親がやるように下唇を突き出しメッという表情で『誰が車で来いと言った。』と決めつけた。鶴田はその為、一日中、ションボリして仕事にならず、確か羽田ロケは再度行われることになった気がする。」という。

プライベートではお茶目な面もあり、仲人を務め親交のあった俳優佐田啓二の家を気に入ってよく遊びに行き、幼少だった娘、後の女優中井貴恵を大変可愛がる。小津監督が佐田家にやってきて宴会が開かれると、しばしば家に現れる小津監督が「どんな仕事をしている人なのか、何故こんなにしょっちゅう我が家にいるのか、全く理解していなかった」中井は、幼子ながらとっくり片手にお酒を注いで回り、小津監督は「未来の酒好きを保証するようなこの幼子に待ってましたとばかりにしっかりと宴会の楽しさを教え込」み、当時大流行だった植木等の「スーダラ節」をほろ酔い気分で自身の振りつきで何度となく中井と一緒に歌っていたという。

1951年、『麦秋』(これも原節子、笠智衆出演、娘の結婚問題を描いた作品)で芸術祭文部大臣賞受賞、1953年の原節子、笠智衆の「東京物語」(尾道から東京で暮らす子どもたちを訪ねた老夫婦の姿を通し、戦後日本における家族関係の変化を描いた名作)では、テレビもない時代、銀幕のスター、原節子を一目見ようと尾道ロケにはファンが朝3時に数千人が集まったという。1958年、紫綬褒章、1963年、60歳の誕生日に逝去。勲四等旭日小綬章受章。

(2)黒澤明監督(1910~1998年)

写真:(今年12月、京都でヴエネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得した「羅生門」の英語字幕付きの上映会開催 提供:国際交流基金)

「“世界のクロサワ”と言われた映画界の巨匠・黒澤明」、「独特の映像世界を創造し、世界中の映画ファンに感動を与えた。その一方で、映画製作に対する厳しい姿勢から、『完全主義者』『黒澤天皇』と呼ばれた黒澤監督は「頭で映画を作るようではだめ。心で映画を作らなければ」と語る。

1937年、東宝入社。入社の選考試験に加わった山本嘉次郎監督は、「黒沢君の第一印象は春風のように暖かく柔和な外面に、なにかごつんとした強い芯をくるんである感じであった。聞くと洋画家を志望していたが、絵では飯が食えぬので映画に転じるのだと答えた。私は少し意地悪く、それなら飯さえ食えれば絵の方がいいのですか、と聞き返した。いや絵だって映画だって同じですと黒澤君は肩をそびやかした。私はその一芸に達した達人のように自信に満ちた言葉に打たれて会社に採用するようにと進言した。」、「かれは私の助監督についたが、わたしとは実によく話があった。他の助監督は映画一点張りの映画青年ばかりなのに引きかえ、油絵はもちろんのこと、日本の古い絵もよく理解していた。また新劇もよく見ていたが能もよく見ていた。音楽はベートーベン、文学はドストエフスキーとバルザック、そして相撲と野球にくわしかった。しかし、それがすべて彼独自の見解で把握されていて、その意見には天才的な真実の追求があった。絵だって映画だって同じだというのもそこにあった。」と語る。

1948年、黒澤=三船の黄金コンビ誕生の記念すべき作品、ヤミ市を舞台に酒好きの医者と結核を患う若いやくざとの交流を描いた「酔いどれ天使」で新人・三船敏郎は、「時代のヒーローになった」と言われ、当時学生で演劇にハマっていた今村昌平監督は「三船を見て、映画にはこんなことができるのかと私自身素直に感動した。」「同じ映画を二度続けて観たのは、後にも先にもこの時だけである。劇場を後にしながら、私は映画監督になろうと決意していた。」といい、演劇青年を辞めて、映画界を目指したという。

芥川龍之介の「藪の中」が原作の「羅生門」(本作の成功で黒澤監督とともに海外で高い評価を受けた三船敏郎(実家が大連の写真屋で復員後に東宝にカメラマンの助手として応募したら、なぜか、ニューフェース1号として採用されたという逸話がある。)主演、京マチ子共演)で1951年にヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞。黒澤監督は、「私は、『羅生門』がヴェニスの映画祭に出品された事すら知らなかった」が、「ある日、釣りをしていると、夫人が土手を走ってきて、『羅生門』がグランプリです。」と告げたという。映画評論家の淀川長治は「羅生門は日本を世界に知らしめた」と語る。「羅生門」の助監督だった田中徳三監督は、「スタッフ、俳優の全てのエネルギーを絞りとってゆくその姿は、まさにエゴの塊であった。撮影は、しわぶきひとつしない荘重ともいえる異様な雰囲気で始まった。」という。

黒澤明の「用心棒」(二組のやくざが対立するさびれた宿場町に流れ着いた浪人者が巧みな策略で双方を戦わせ、最後には自ら刀を抜きやくざたちを倒し、いずこへとも知れず去っていく。1961年、ヴェネチア国際映画祭で三船敏郎が最優秀男優賞受賞)を見た無名時代のイタリアの映画監督セルジオ・レオーネが「すごい映画がある」と言ってローマで小学校の同級生だった、後に映画音楽の巨匠となるエンニオ・モリコーネに勧めて、一緒に見て、音楽を作らせてできた映画がクリント・イーストウッド主演の「荒野の用心棒」(「用心棒」の盗作として東宝が著作権侵害で勝訴)。「イーストウッドを一躍トップスターに押し上げ、監督レオーネ、音楽エンニオ・モリコーネ共に出世作」となり、マカロニウェスタンブームの火付け役に。1965年には「赤ひげ」(「江戸時代の小石川養生所を訪れる庶民の人生模様と赤ひげ所長と青年医師の心の交流を描く。」)で再び三船敏郎がヴェネツィアで最優秀男優賞受賞。1980年には「影武者」がカンヌ国際映画祭パルム・ドール。ハリウッドでもスティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスなど影響を受けた監督は多く、おそらく世界でもっとも有名な日本の映画監督。「ゴッド・ファーザー」のフランシス・コッポラ監督は、友人と飲んでいて「ノーベル文学賞はそろそろ映画監督に与えられるべきだ」という話になり、ノーベル賞委員会に電報を打って「黒澤監督にノーベル賞を与えるべきだ」という申し入れをしたという。

1957年の「蜘蛛巣城」(シェイクスピアの「マクベス」の戦国時代版。)では、三船敏郎演ずるマクベスが無数の矢に曝されるラストシーンで三船に向かって本当に射させたため、さすがに三船も「もし間違えて刺さったらどうすんだ!」と怒り、酔っぱらった三船が黒澤監督の家の近くに行って「『死んじまえ!黒澤!』って叫んだという有名な話」もあるというが、娘の黒澤和子(黒澤組で衣装を担当)によると「本当は子供がそのまま大きくなったような、素直で無邪気で可愛い人」だという。

1985年「乱」(シェイクスピアの「リア王」の戦国時代劇版」邦画配給収入3位)に17歳で出演した野村萬斎は、「できることなら、黒澤番『ハムレット』というものに出てみたくもあり、見てみたかったなという気がいたしております。」という。

1976年文化功労者、1984年フランスからナポレオンが創設したレオンジドヌール勲章(オフィシェ)受章、1985年レオンジドヌール勲章(コマンドール)受章、同年、文化勲章受章。1998年逝去、死後贈従三位、国民栄誉賞。

(3)今村昌平監督(1926年~2006年)

黒澤明監督と同様、三大国際映画祭で2度も最高賞獲得。東京・大塚の開業医の家に生まれ、18歳で終戦を迎え「ちょうど朝鮮戦争頃、私は新宿の遊郭と駅前の闇市を往復して稼いでいた頃で…生涯で最も裕福な時代だった。」と語る。「人間の欲望がむき出しに渦巻く闇市での生活体験が今村昌平の原点」だという。家庭教師先の倒産で授業料代わりに貰った焼酎を闇市で売り捌き、1948年、闇市を舞台にした黒澤明監督の「酔いどれ天使」を見て映画監督を目指したが、黒澤明監督のいた東宝では助監督の採用がなく、松竹に入り、「麦秋」の途中から小津監督の助監督となる。「東京物語」では、設定が秋の尾道ロケが実際は七夕の季節だったので、「山から町を俯瞰すると、短冊を吊るした町中の笹竹がどうしてもうつってしまう。ドラマの設定は秋なのでそれはまずい。ので「『あれを倒してきてくれ。』と、こともなげに言う小津さんの言葉を受けて駆け出したはいいが、竹は何千本もたっている。一軒一軒に頼み込んで倒してまわり、へとへとに」なったという。小津監督の覚えもめでたい伝説の助監督で「小津さんはずっと私のことを気にかけてくれていたようだ」という。

1954年に日活へ移籍。1958年に旅回りの劇団の座付作家と座長の娘たちを描いた『盗まれた欲情』で監督デビュー。翌年、貧しさに負けず、明るく逞しく生きる兄弟愛を描いた『にあんちゃん』(ベストセラーとなった10歳の少女の日記を映画化。)で文部大臣賞を受賞し世に名を広める。日活の監督としては「鬼の今平」と呼ばれ、唐津ロケ中、「撮影のさなかに背景の海に大きな貨物船が現れ、邪魔であった。」ため、助監督に「なんとかしろ」と怒鳴って、船長以下乗組員を説得させて貨物船をどかせたり、借家で撮影中、部屋が狭すぎて撮りたい映像が撮れず、撮影がストップしたため、カメラのスペースを確保するため、夜中の12時近くに助監督に隣家と交渉させて台所の壁に穴を開けさせてもらったり、航空撮影のチャーター便の資金が底をついたため、通常3,000メートルを飛行している那覇行きの南西航空の定期便のパイロットに頼んで、高度600メートルを飛行してもらって撮影。操縦席を出ると、大勢の乗客は2,400メートルの急降下と急上昇を繰り返したため気分が悪くなり、紙袋に口を押し当てていたという。(家でも「力仕事はすべてお袋に任せ(お袋の腕力は半端ではない)、自分は号令をかけるだけである。さすがに監督で、号令はうまい。」とは息子の天願大介監督談。)出演俳優に対しても容赦なく、三国連太郎は、水中でのダイナマイトの爆破シーンでとっさに岩陰に隠れて水圧を躱して難を免れ、「こんな人と仕事をしたら死んじゃうなという気になりました」と言い、以後の今村作品への出演を遠慮したという(11年後に今村作品に出演。)し、小学校以来の悪友でもある北村和夫は沼地に沈んでいく場面で本当に溺れかけたが、今村監督は「これは本編のテーマとなる極めて重要なシーンなんだ。もっと深く入って!」と冷たく命じ、演技を続けるよう求めたという。(しかし、結局、そのカットは使用せず。)

1966年に独立して今村プロダクションを設立。映画の衰退とともに撮影所の凋落を目の当たりにし、「人材を養成する場が崩壊すれば映画はだめになる、憤りとともに強い危機感を持った。」ため、学校を作るならタダで良いという奇特な地主からボウリング場跡を借りて、映画・演劇仲間に講師を頼み込み、75年には横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)を開校し、学院長に就任。自宅を借金のカタに入れて資金調達し、ヒットしないと借金の返済に追われて次の映画が作れないという苦労も重ね、映画監督は儲かるものでもないという実体験(学校の設立に絡んで、手形詐欺に遭って多額の借金を負い、10年ほど映画を作れない時期があり、助監督時代に松竹の大船撮影所の人気者だった今村夫人がアニメ制作の下請けで稼いでしのいだという。)がある今村監督は「映画や演劇など志せばいかに貧乏するのか、手続き前に講師が散々脅」したのに志望者が大勢押し寄せたという。そこで映画監督、脚本家、作家、タレント、俳優などを育成。出身タレントには、ウッチャンナンチャンのコンビや出川哲郎らがいる。

「日本の底辺に目を向け、人間の本性を執拗に追求した。」と言われ、「人間というものがかくも複雑多面体かということがある 甚だ面白きものだと思います」と語る。

1983年の緒形拳主演の「楢山節考」(山深い寒村を舞台に姥捨てを目前にした人間の生き方を描く。)でカンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。曰く、「大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」が出品されていて、前評判もかなり高かった。…マスコミの話題も「戦場」中心であった。こちらは渡仏するのも面倒なので」、カンヌには行かず、東京でスタッフらと麻雀をしながら受賞の連絡を受けたという。1997年にも役所広司主演の「うなぎ」(「妻の浮気で人間不信に陥り、唯一飼っているうなぎだけに心を開く中年男と彼をとりまく人たちの交流を描いた人間喜劇。97年度キネマ旬報ベスト・テン第1位。」)で2度目のカンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。2度目は夫人とカンヌまで行ったが、歴代受賞監督との夕食会で満足し、表彰式前に帰国。カンヌで二回もパルム・ドールを獲ったフランシス・コッポラら世界的にも数少ない監督の一人。このためなのか、「楢山節考」などで主演し、フランスでの今村昌平特集に行った緒形拳曰く、「フランス人が今村昌平を好きだっていうのが、ちょっと異常じゃないかというぐらい」と語る。2001年に「赤い橋の下のぬるい水」(リストラされた中年男の再起がテーマの「艶笑譚」ファンタジー。)を「カンヌ国際映画祭で上映した際、フランスの新聞リベラシオンは私を『助平じじい』と褒めてくれた。」とご満悦。2003年、日本経済新聞「私の履歴書」寄稿。2006年逝去。旭日小綬章受賞。フランスから芸術文化勲章受章。

(4)宮崎駿監督(1941年~)

写真:(国内歴代興行収入1位 宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」 出典:スタジオジブリ公式Website)

東映動画(現・東映アニメーション)入社。Aプロダクション、日本アニメーション等を経て、85年にスタジオジブリの設立に参加。かつて、マンガを描いて出版社に持ち込んだこともあるというが、「だいたいが、すごい大河マンガになってしまって、向こうも見るまえに断った」といい、漫画に見切りをつけて、東映動画を選んだという。

その間、「太陽の王子ホルスの大冒険」(岩の巨人モーグに助けられた少年ホルスはモーグの肩のトゲ(実は名剣「太陽の剣」)を抜いてやり、モーグと共に悪魔を退治する冒険談)(1968年)、「パンダコパンダ」(突然パンダの親子がやってきて、日常生活が冒険の舞台に転化する話)(1972年)等の劇場アニメ、「アルプスの少女ハイジ」(74年)等のテレビアニメ制作に携わり、「未来少年コナン」(1978年)の演出を手掛け、「ルパン三世 カリオストロの城」(「原作を完全に自己流に組み替えて、巧みな演出で冒険とロマン、人間味あふれる『宮崎アニメ』の典型的作品」(1979年)で劇場作品を初監督。「アルプスの少女ハイジ」について、若き日の宮崎監督は、「子どもたちをものすごく集中させることが…テレビでも可能だとは思わなかったんです。それが可能だと証明したような気がしたんですが、ただ証明し続けるのには、とてつもない非人間的なエネルギーが必要でね。それはもうむちゃしましたから、本当に。床で寝てはい起きて、また描いたりしてね。それで病気になる奴はやる気がないからだというふんい気でね。カゼもひかなかったですね。」と語る。初のアニメ雑誌「アニメージュ」に連載した自作漫画をもとに、84年には「風の谷のナウシカ」を発表、自ら原作・脚本・監督を担当し注目される。

その後はスタジオジブリで監督として「天空の城ラピュタ」(86年)、「となりのトトロ」(88年)、「魔女の宅急便」(89年)、「紅の豚」(92年)、「もののけ姫」(97年)、「千と千尋の神隠し」(2001年)、「ハウルの動く城」(04年)といった劇場作品を発表。2001年の「千と千尋の神隠し」は日本で興行収入300億円超え、今も日本の歴代興行収入1位に燦然と輝く。

2001年、仏国家功労賞とパリ市勲章をダブル受賞。2002年、「千と千尋の神隠し」でベルリン国際映画祭の金熊賞をアニメーション作品で初めて獲得するとともに、アカデミー長編アニメーション部門賞を受賞。2005年のベネチア国際映画祭で名誉金獅子賞を受賞。2001年にオープンした「三鷹の森ジブリ美術館」の構成・演出も手がける。2012年、アニメーション映画監督として初めて文化功労者。そういえば、宮崎駿以前のアニメでは、アニメ映画の原作者が誰かは浮かんでも、監督が誰かは浮かばない。

「となりのトトロ」、「魔女の宅急便」を観た黒澤明監督は、「とても感激してね、猫バスなんてすごく気に入った。だって思いつかないでしょ。「魔女の宅急便」は泣いちゃってね。」と語ったという。

スタジオジブリの鈴木敏夫代表取締役プロデューサーによると「企画につながる彼の情報源はふたつしかありません。友人の話。それに、日常、スタッフとのなにげない会話です。『企画は半径三メートル以内にいっぱい転がっている』」、「宮さん(宮崎駿監督)と僕が話して、「鈴木さん、つぎどうしよう。『千と千尋』って話を考えたんだけと」と言い出す。話を聞いて、「それいいじゃないですか。」と僕が答えて、これで終わり(笑)。しかも、企画をシナリオに起こしたり、イメージボードを作ったり、という作業はすべて宮さんがひとりでやってしまう。」、「彼は絵を描くときに、資料はいっさい見ません。」、全体像から部分を考える西洋の建築と異なり、「日本の建物は部分からはじめる。まず第一に、床柱をどうするのか。つぎに床柱に見合う床板を探す。…その部屋が完成してはじめて、隣の部屋のことを考える。その後、〈建て増し〉をくりかえし、全体ができあがる。」が、宮崎駿監督も同じように、部分から考えるという。「ハウルの動く城」で、「宮崎駿は、まず、大砲を描き始めた。これが、生き物の大きな目に見えた。つぎに、西洋風の小屋とかバルコニーを、さらに大きな口めいたモノを、あげくは舌までつけくわえた。」、「これが宮崎駿が西洋で喝采を浴びる原因だ。西洋人には何が何だか、わけがわからない、理解不能のデザインなのだ、だから、現地での反応も、豊かなイマジネーションだ、まるでピカソの再来だとなる。」、世の中が変わり、ジブリも変わったが、「そういう変化に全く影響を受けていない男が」「ほかでもない宮崎駿監督です」、「彼の食事は、僕が付き合い始めてから二十五年間、ずっと毎日、奥さんの手弁当。」、「毎日、おいしいものを食っていたら、舌が麻痺して、何がおいしいんだか、わからなくなるのがおちだからです。というわけで、宮崎駿の五感、視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚は、とぎすまされたままで鈍っていません。」、という。

写真:(「ハウルの動く城」出典:スタジオジブリ公式Website)

(5)北野武監督(1947年~)

あいにく国際映画祭でまだ賞をいただいたことがなく、どうやって受賞が決まるのかはよくわからない。ただ、1983年、ハラ軍曹役で出演した大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」(坂本龍一の名曲をBGMに「第二次世界大戦下のジャワ山中の日本軍捕虜収容所を舞台に、極限状態におかれた男たちの心の交流を描いた人間ドラマ。」)について、真偽のほどは定かでないが、北野武監督曰く、「あれ、俺、助演男優賞か?って話もあったんだよ。…大島(渚監督)さんが、もう獲ったもんだと思ってパーティ開いたりなんかしたら、審査員が『やめよう』って、パッと変わっちゃたって。…『何だよそれ。そんなことで変わんの?』ってぐらい、ほんとに変わっちゃったのよ。大島さん、パーティーやったりなんかして、「OHSHIMA GANG」って描いたTシャツ着ちゃって、山本寛斎なんかの。それでねり歩いちゃったら、グランプリ、『楢山節考』(今村昌平監督)になっちゃった。で、発表のとき、間違えて「ナギサ・オオシマ、ナラヤマブシコウ」って言われちゃったんだよ(笑)。」。

1989年、自身が主演の暴力的な異端刑事の組織や殺し屋たちとの闘いを描く「その男、凶暴につき」で監督デビュー。曰く、「まず台本を作るじゃない。そうするとエンターテインメントの共通項なんだけど、掴みっていうのがあって。お笑いだと、客前に出てきて『ツービートです』って言って、そこが最初の笑いなんだよね。それが映画にとっては最初の絵になるんだよ。映画の場合は、この掴みから行こうって決めるわけじゃなくて、台本が完成したときに、さて最初のシーンでどういう絵を使うかって考えるんだよね。」と語る。

映画評論家の淀川長治が、「日本映画では、やっぱりタケシ(北野武)が群を抜いて立派だ。感覚が鋭い。…『HANA‐BI』は、封切が年を越すので何も今は申すまいが、やっぱりうまい、感覚の問題だ。」と封切前に絶賛していたら、翌1998年、『HANA‐BI』は、ヴエネチア国際映画祭で日本映画としては1958年の『無法松の一生』(稲垣浩監督、三船敏郎、高峰秀子出演、無骨な人力車夫の生涯を描いた。)以来40年ぶりの最高賞の金獅子賞など国際映画祭で受賞多数。北野監督曰く、「『HANA-BI』んときはねえ、だって、授賞式に行ってるスタッフ、誰もとると思ってないよね。…ただ、上映されたあくる日から、マスコミが騒ぎ出したんだよね。大島さんの時のことがあるから、ホテルの部屋に閉じこもっちゃうわけで(笑)。…上映が終わったときに……スタンディング・オベーションっていうの?客が立ち上がって、ワーッって拍手してくれて。『ああよかった、恥かかなかった』ってぐらいのもんだよ。あとできいたら、そんなことヴェネツィアでもはじめてだったらしいんだけど。そんなこと知らないじゃない。驚いちゃったけど。最終日近くになってきたら、初めて賞の話が出てきて、ほいでホテルにこもっちゃうっていうから、『あれ?俺、候補なんだ。』とでもなんか、獲れたらいいとは思うけど、それの数倍、「どうせダメだよ。」って感じあるから。」「こっちはカンヌのぬか喜びってのがあったから。カフェで写真撮られてても、『ヤだな、写真ばかり獲って。『戦メリ』の悪夢が。また『たけしぬか喜び』って(笑)。」。2003年には同じく、「座頭市」でヴェネチアの銀獅子賞(監督賞)も受賞(黒澤明監督の娘、黒澤和子が衣装担当)。更にヴェネチアでは「監督・ばんざい!」で参加した2007年に「監督・ばんざい!賞」受賞。

黒澤明監督も、北野監督の作品はすべて見たといい、「HANA-BI」を観た黒澤明監督は、「『その男、凶暴につき』を観た時から、才能あると思ったね。この作品もずかずかと踏み込んでいく思い切りのよいところもあるし、楽しめたよ。出演してる一人一人の存在感がしっかり出ているところが素晴らしいね。」と語ったという。

カンヌ映画祭で大評判だったという『菊次郎の夏』で受賞を逃した1999年、フランスからレオンジドヌール勲章(シュヴァリエ(騎士))を受賞。「ヴェネツィアでもらってるから、『ああそうか、こういう感じだな。賞もらうときは』なんて思ったら、くんねえじゃん?…カンヌは期待したもんねえ。『これで2冠だ』と思ったね。でもまた、獲れると思うときには獲れない。」、「あれはね、たぶんね、『菊次郎の夏』で賞くれなかったから、悪いと思ったんじゃねかな。フランスの評判悪くなったらいけねえと思ったんじゃない?」。更にレオンジドヌール勲章(コマンドール(騎士団長))(2010年)も受賞。2016年、黒澤明監督以来32年ぶりのレオンジドヌール勲章(オフィシェ)も受賞。その叙勲を行った元フランス文化大臣のジャック・ラングは「大胆で独創的な創造性により生み出された作品が、芸術ジャンルの限界をやすやすと乗り越え、演劇・テレビ・映画・文学などの約束事を変革し、現代のアートシーンに影響を与えてきた」、「あらゆる形態の大衆芸術の発展への熱心な関わりによって、フランス、日本そして世界中で名を馳せた型にはまらない完全無欠のアーティストとして存在していることに、オマージュを捧げたい」と称えたという。2018年には旭日小綬章受章。

(6)是枝裕和監督(1962年~)

写真:2019年トロント国際映画祭、「Japan Film Night」での是枝浩和監督、提供:国際交流基金

テレビのドキュメンタリー番組の制作出身。アルバイトで進研ゼミの「赤ペン先生をやりながら散々文句を言ったんです。『この問題設定がおかしい』とか『文章の選び方がおかしい』といちゃもんつけてたら『じゃあ、作る側に回れ。』って言われて、「面白かった」、「大切なのは、『答え』ではなく『問題』」だ、と語る是枝監督は、大学卒業後、テレビマンユニオン(「大陸横断ウルトラクイズ」や「世界不思議発見」の制作会社)に入る。最初の社長に最初に「世の中にはクリエイティブな仕事とクリエイティブでない仕事があるのではない」、「その仕事をクリエイティブにこなす人とクリエイティブにこなさない人がいるだけだ。そう考えて仕事にあたりなさい。」と言われたという。お金をかけて海外ロケまでやったのに放送できないものをつくってしまい、その番組のレギュラーのチームから離れ、「みなが『是枝はもうやっていけないな。』と思っているのがわかると、僕は天の邪鬼で、負けた奴と思われるのが嫌で、「殺すリスト」というのを作ったんです。」、「こいつらを殺してから辞めようと(笑)」。「その時期に、自分で企画書を作って放送局に持って行って実現したのが僕のデビュー作です。」という。それが1991年、「生活保護に関するドキュメンタリーで、放送局のプロデューサーに直接持ち込んだら『生活保護について全然知らないから、見てみたいからやってごらん。』と言われて、何のキャリアも問われずに一本やらせてもらった」番組、『しかし・・・・・・福祉切り捨ての時代に』でギャラクシー賞優秀作品賞受賞。

「日本の映画界は、僕がデビューしたあとも随分変わった。お客さんが監督で作品を観なくなった。監督で企画が動くことが少なくて、多くのお客さんが見るものは監督主導で作られている作品ではないんです。原作の漫画があって、キャストが決まって、脚本が決まって、それから、監督は誰にする?この時期に空いている人は?という流れのものが大量生産されている。そこと、たとえば、『カンヌ国際映画祭』に出る映画と、完全に二極化しているんです。」という。

1995年、初監督映画「幻の光」(新人の江角マキコ主演。「子供の頃、祖母が失踪し、幸せな生活を送っていたはずのある日、夫が自殺した女の「“生と死”“喪失と再生”を描いたドラマ。」)がヴェネチア国際映画祭で金のオゼッラ賞(撮影賞)などを受賞。2004年、父親の違う子供4人を母親が置き去りにした事件を元に構想から15年で映画化した「誰も知らない」で当時14歳だった柳楽優弥がカンヌ国際委映画祭で日本人初・史上最年少で男優賞受賞。子供の取り違え事件を扱った福山雅治主演の「そして父になる」は、2013年カンヌ国際映画祭 審査員賞受賞。2015年「海街diary」(文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞やマンガ大賞2013を受賞した人気コミックの実写映画化。「湘南を舞台に、異母妹を迎えて4人となった姉妹の共同生活を通し、家族の絆を描く。」)で日本アカデミー賞作品賞、監督賞に加え最多12部門受賞。

2014年、独立。「受注しない」という妙なルールを作り、自分たちで企画を立てて売ることにしたという。「いまは、監督が自分で企画を立てて持ち込むこと自体が減ってきているんです。企画書書いても、それに対してお金が払われないから。」、「そういうことをしていると、オリジナリティーのある企画は生まれてこない。…だから、企画書にお金を払ってもらって、事務所を回していくことにしたんです。」と語る。

2018年、樹木希林の生前に上映された最後の作品となった「万引き家族」は、カンヌ国際映画祭で、今村昌平監督の「うなぎ」以来、21年ぶりのパルム・ドール受賞など内外で受賞多数、2019年には、「万引き家族」が日本映画としてインドで初めて商業公開されたという。

2019年には母と娘の間に隠された真実をめぐる物語を、フランスを代表する女優カトリーヌ・ドヌーブとジュリエット・ビノシュの共演、全編フランスで撮影した日仏合作映画『真実(原題:La Vérité)』が日本映画初のヴェネチア国際映画祭コンペティション部門のオープニング作品となる。

(7)新海誠監督(1973年~)

「デジタルの世代の映像作家」新海誠監督。ゲーム開発会社在籍中に『彼女と彼女の猫』(2000年))を発表。「CGアニメコンテスト」でグランプリ。それが「以降の日本のCGアニメの潮目を変えた」とも言われる。下北沢の座席47の映画館で上映したときは客が全然来ず、夜の上映会にスーツを着た新海監督がチケットを買ってから「『彼女~』を作った新海というものなんですが…。」とやってきた回は、結局、お客さんは他に誰も来ず、新海監督だけだったというが、それでも、当時から「自己プロデュース力をもって、常に自分をアップデートするにはどうするか考え続ける姿勢」があったという。

脚本、作画から美術、編集、演出、監督までほぼ一人でこなして作り上げたフル・デジタル・アニメ『ほしのこえ』(2002年)の予告編を見たプロデューサーが新海監督に制作中の生活費を負担するので会社を辞めて制作に専念してもらうと提案、8か月で一気に完成。予告編をかけたら、客から「あれはなんですか?いつ公開ですか?」と反応。「蓋を開けてみたら、朝から劇場前は大行列」「1か月の上映期間中、連日満員」だったという。「絵コンテ、撮影、美術、編集と全部一人で」やった初の劇場映画『雲のむこう、約束の場所』(2004年)がロングラン記録、毎日映画コンクールアニメーション映画賞他受賞。「初恋の純粋さ、いつか訪れる別れの切なさを描いた連続短編集」『秒速5センチメートル』(2007年)で第1回アジアパシフィック映画賞(アニメーション映画賞)他を受賞。」

2011年に公開された、地下世界アガルタを舞台に展開される冒険ファンタジー『星を追う子ども』で第八回中国国際動漫節「金猴賞」優秀賞受賞するなど「君の名は」のヒット前から中国でも知られていて、2015年に中国各地で開催した新海誠監督のイベント、南京の会場を中心に2千人も集まったという。

新海監督が「『観客を笑わせることも、泣かせることも、長編作品の時間のコントロールも、今ならできるのでは』という思いを胸に長編アニメーション制作に再び挑んだ」2016年のアニメ「君の名は」が日本で興行収入1位、歴代でも宮崎駿の「千と千尋の神隠し」に次ぐ2位。中国でも「週末興収ランキングで初登場1位を獲得」、「初週の成績は日本、台湾、香港、タイに続き、アジア5冠を達成」。最終的に95億円の興行収入は中国での日本アニメの興行収入記録を更新。監督自身の原作もミリオンセラー。映画の舞台となった聖地が人気に。

写真:(2016年国内興行収入1位「君の名は」の聖地、Cafe La Boheme新宿御苑店。主人公の男の子がアルバイトをしていたカフェのモデルだという)

2019年の「天気の子」は、観客動員数1,000万人を超える大ヒットを記録、日本で興行収入1位となり、映画の興行収入史上最高額に大きく貢献。

冒頭にご紹介した黒澤清監督も「言葉が全然通じない国の人にも、映画は意外と通じる」、「映画は世界共通の表現なのだということを何度も経験しています」というが、このような監督たちの御活躍もあり、日本映画の国際的な評価も高まり、今日、その作品を世界中の人々が楽しんでいる。

なお、今回、ご紹介した映画監督のうち、映画やアニメーション制作という芸術活動を通じて、日本文化を普遍的に伝えてきた黒澤明監督は1982年、宮崎駿監督2005年にそれぞれ国際交流基金賞を受賞している。

映画を巡る環境として、最近益々、プレゼンスが高まっているアニメ、映画のネット配信、日本映画の海外展開等については次回に譲る。それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

(主な参考文献)

「時代と男女浮き彫りに ベネチア銀獅子賞スパイの妻〈劇場版〉」2020年10月9日 読売新聞夕刊

「黒沢清監督のベネチア銀獅子賞受賞は当然の結果!国際的人気を振り返り」9/21(月) 12:06配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/3ddad38245570431862d4662d4e79c5b98599b66?page=1

シネマトゥデイ「黒沢清の映画がフランスで爆発的人気があるワケ」2016年10月11日 10時11分、https://www.cinematoday.jp/news/N0086605

「伊藤総領事のジャパン・フィルム・ナイトへの参加」https://www.toronto.ca.emb-japan.go.jp/itpr_ja/b_000409.html

「10月 1, 2019 トロント国際映画祭でジャパンファウンデーション主催の「JAPAN FILM NIGHT」が開催。是枝監督、黒沢監督、深田監督、HIKARI監督が登壇。」https://torja.ca/japan-film-night-2019/

「ジャポニスム2018:響きあう魂 『日本映画の100年』―日本映画全119作品をパリで上映!」https://www.jpf.go.jp/j/about/press/2018/dl/japonismes-013.pdf

「東京物語:作品情報 - 映画.com」、https://eiga.com/movie/38069/

「姿三四郎 - 作品 - Yahoo!映画 - Yahoo! JAPAN」、https://movies.yahoo.co.jp/movie/134742/

「小津安二郎大全」、松浦莞二・宮本明子編、朝日新聞社、2019年

「晩春 - 作品 - Yahoo!映画」、https://movies.yahoo.co.jp/movie/135324/story/

「麦秋(1951):作品情報 - 映画.com」、https://eiga.com/movie/38684/

「国際交流基金京都支部 『羅生門』(英語字幕付き)上映会(英語字幕付き)」https://www.jpf.go.jp/j/about/archive/information/2010/1009/img/911rashomon.pdf

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「黒澤明という時代」、小林信彦、文芸春秋、2009年

「KADWMOOK別冊 生誕100年総特集 黒澤明(増補新版)」、河出書房、1998年

「荒野の用心棒:作品情報 - 映画.com」、https://eiga.com/movie/44396/

「エンニオ・モリコーネさん (映画音楽の巨匠) 物語が浮かぶ『脚本音楽』」2020/8/14付495文字https://www.nikkei.com/article/DGKKZO62636330U0A810C2EAC000/

「蜘蛛巣城:作品情報 - 映画.com」、https://eiga.com/movie/10265/

「黒澤明の演出に三船敏郎ブチ切れ? 昭和映画界ウラ話! NHK衛星映画劇場の渡辺支配人と山本晋也トーク」、https://www.banger.jp/movie/18655/

「映画は狂気の旅である。私の履歴書」、今村昌平、2004年、日本経済新聞社

「今平犯科帳 今村昌平とは何者」、村松友視、日本放送出版協会、2003年

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「赤い橋の下のぬるい水:映画評論・批評 - 映画」.com https://eiga.com/movie/1246/critic/

スタジオジブリのWebsite http://www.ghibli.jp/chronology/

「アニメージュ増刊 映画 風の谷のナウシカ Guide Book」、徳間書店、1979年

「ジブリの哲学-変わるものと変わらないものー」、鈴木敏夫、岩波書店、2011年

国際交流基金のWebsite「平成17(2005)年度 国際交流基金賞/奨励賞」https://www.jpf.go.jp/j/about/award/archive/2005/

「宮崎駿監督が、仏国家功労賞とパリ市勲章をダブル受賞」http://www3.cinematopics.com/archives/38974

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「ラストシーン」、北野武、株式会社ロッキング・オン、2017年

「北野武、今、63歳」、北野武、株式会社ロッキングオン、2010年

「北野武にレジオン・ドヌール勲章『完全無欠のアーティスト ...」https://www.huffingtonpost.jp/2016/10/18/takeshi-kitano_n_12551380.html

「公開対談 クリエイティブな仕事はどこにある?」、是枝裕和、樋口景一、廣済堂出版、2016年

「新海誠監督の来印決定、インドで日本映画祭」 - NNA ASIA . https://www.nna.jp/news/show/1948853

新海誠作品ポータルサイトhttp://www.shinkaiworks.com/profile

「新海誠展『ほしの声』から『君の名は。』まで」、朝日新聞社、2017年

「新海誠展-劇場映画にみる新海誠の世界-」中国・北京 展示会http://www.shinkaiworks.com/m/other-works/page/8

「『君の名は。』中国公開3日間で興収42億円!日本では邦画歴代2位に浮上」https://anime.eiga.com/news/103785/

「トロントで目撃した『天気の子』の熱狂――新海監督、是枝監督らの日本作品はどこまで愛されたのか」、https://news.yahoo.co.jp/byline/saitohiroaki/20190919-00143008/