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危機対応と財政(6) 戦後に出来上がった我が国の意思決定の仕組み

国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇

今日の日本に、戦前の大久保利通や原敬といったリーダーシップを持つ政治家を期待しても難しい背景に、戦後に出来上がった意思決定の仕組みがある。これまで見てきたようにリーダーシップのスタイルは各国様々で、それも時代によって変遷しているが、その背景にある意思決定の仕組みも各国様々で時によって変遷している。今回はそのような観点から、英国との対比で、戦後の我が国で出来上がった意思決定の仕組み、今日の与党の事前審査制度について見ていくこととしたい。

1.英国のディベートの伝統と我が国のコンセンサス重視の伝統

前回見たとおり、英国では国民は「時の政権」に無謬性を期待しない。与党が失敗すれば野党に政権をゆだねればいいというのが英国の二大政党制である。その背景にあるのが、英国の議会におけるディベートに基づく意思決定の仕組みである。英国議会で行われるディベートは、「言葉の決闘」とも言われる激しいもので、一定の時間の範囲内で、激しい議論が行われて多数決が行われるが、それで少数意見がなくなってしまうわけではない。少数意見は、与党が失敗した場合に政権を担いうるものとして、当然に残されるのである。

それに対して我が国の意思決定においては、英国のようなディベートは行われず、「根回し」などによってコンセンサスが形成される。そして一旦コンセンサスが出来上がると、少数意見がなくなってしまうわけではないが、「空気」の支配が出来上がる。そして、極端なケースではその「空気の支配」にそっていると考えられる限り、直属の上司の指示に反しても咎められなくなってしまう。その悪しき例と言えるのが、かつて満州事変に際して「親軍感情」という「空気」が出来上がり、その「空気」にそって現地の司令官が戦線を拡大しても軍の中央がそれを抑制できなかったこと*1、その後の日米戦争で日々敗色が濃くなっても「聖戦貫徹」の「空気」の中で、政府が本格的な終戦処理に取り組めなかったことなどである。

2.「多数の横暴」が言われる国

英国のサッチャー元首相は、「コンセンサスとは、誰も反対しないが誰も信じていないことを求めるために、全ての真実や信念を犠牲にすること」であると述べていた。サッチャー元首相は「鉄の女」と呼ばれ、英国の歴代首相の中でも強力なリーダーシップを発揮した指導者として知られている。このサッチャーの言葉が意味しているのは、英国議会のディベートで少数意見が残るのは当然と見なされていることである。その背景にあるのは、ディベートにおいて相手の人格を尊重する議論が行われるということである*2。「空気の支配」で少数意見を押しつぶすようなことはないということである。英国の選挙で死票が問題とされないのは、この慣行の下、次の選挙までに行われるディベートによって少数意見が多数意見になれば、今度はそれに全員が従うからである。そのような仕組みの下では、多数決が「多数の横暴」と言われることはないのである。

日本でも、政治は多数決で決まるものとされている。しかしながら、わが国では多数決で決めようとすることに対して、しばしば「多数の横暴」と言われる。あくまでも、コンセンサスを求めるべきだという考え方がその背景にある。それは、江戸時代以来の全員一致を良しとする考え方を踏まえたものといえよう*3。実は、江戸時代の村の寄り合いには、地主だけでなく小作人も含めて村人みんなが参加し、全員が納得するまでの話し合いが行われていた。多数決は行われていなかった。寄り合いには、その家の主人が亡くなった場合には未亡人が、未亡人もいない場合には未成年の子供が参加していた。そこには「多数の横暴」はなかった。それは極めて民主的なプロセスで、けして「全ての真実や信念を犠牲にする」ようなコンセンサスが求められていたわけではなかった。ただ、そこには、英国流の「言葉の決闘」はなかった。そんなことをすると傷つく人が出てきてしまうと考えられていたのである。論理的な説得はほどほどにして、説得されない参加者には論理を超えたところでその者の顔を立てて全員一致の意思決定が行われていた。それは、理想的に行われれば素晴らしい仕組みであった*4。しかしながら、それは、全員が先祖代々同じ生活圏で暮らしてきた江戸時代の村という狭い世界では合理的に機能する仕組みであったが、明治維新になって文明開化の下、人々の生活圏が拡大すると合理的でも可能でもなくなり、多数決が導入されたのである*5。

しかしながら、そのようにして多数決が導入されたが、今日でも日常生活の場で多数決で物事が決まることはほとんどない。家庭の中でもそうであるし、会社においても最後に決めるのは部長であり社長である。多数決原理に基づく会議が行われるが、その前には根回しが行われて、できるだけ全員一致にする努力が行われるのが一般的である。それは、政治の場でも同様である。竹下登元総理の回顧録*6に、「タフ・ネゴシエーターといえば、実は強力なネゴシエーターじゃないんだ。本当は相手の立場を引き上げていく能力があるということなんだ」というくだりがある。相手の立場を引き上げるというのは一種の「根回し」であり、そのようにして全員一致を目指すのである。そのような手法による意思決定の背後にあるのが、江戸時代以来のコンセンサス形成が理想的という考え方というわけである。

3.我が国のコンセンサスを支える「根回し」

我が国でコンセンサスを得るために行われる「根回し」について、谷沢永一氏*7は以下のように述べている。「なんらかの組織に属する我が国びとが、猛然と腹を立てる最も普遍的な情景はなにか。決まりきった通例がどこにでも見られる。すなわち、それを私はまだ聞いていない、と怒りだす場面である。ひとりがこう開き直って異議の申し立てを始めると大抵の会議は二進も三進もいかなくなる。日本人は常に仲間のひとりとしての座を確保していなければ気が済まない。この場合の仲問とは情報を共有している関係であり、それを確認して安堵している自己満足が生甲斐なのであろうか。情報がいつもおのずから当方に達するのは自分が重んじられているからである。この俺様が、承知していなければ何事も前へ進まないのだと自信を強めるためには、あちらこちらからしょっちゅう情報が耳打ちされていなければならない。誰かを最も痛切に苛める手立ては独りぽっちに追いこむ措置であり、気の毒なその人は恐らく精神に変調を来たすであろう。ゆえに我が国では会議の前に根回しが必須となる。あまねく同意を得てから漸く開催に漕ぎつけるのだから殆どの会議は儀式でしかない。これは勝者と敗者をつくらないための欠くべからざる措置である。真剣勝負の討論に持ちこめば必ず誰かが敗者となる。簡単な議事であっても負けたら怨む。そして遣る気を失う。協力しなくなる。仕事に齟齬を来たす。根回しは単に面子を立てるだけではない。その人の自覚を高め遣る気を起こさせる手立てである。人を心の底から喜ばせる素晴らしい措置なのである。」この谷沢氏の指摘は、日本の意思決定過程が「人格を尊重する」ことそのものであり、「人格を尊重する」具体的手段として「根回し」が行われてコンセンサスが形成されることを示している。そのようなコンセンサス形成の仕組みとして戦後出来上がってきたのが与党の事前審査制度と言えよう。与党の事前審査制度は、それが国会審議を空洞化させている、透明性に欠けるといったことで何かと批判されてきたが、*8今日でも厳然として行われているのには、そのような背景があると考えられるのである*9。

4.事前審査制度の誕生*10

与党の事前審査制度は、池田内閣当時の昭和37年(1962年)2月23日、自民党の赤城宗徳総務会長が大平正芳官房長官に提出した文書(「法案提出の場合は閣議決定に先立って、党総務会に報告をお願いしたい」)から始まったものである。そこに至る過程には予算編成が深くかかわっていた。今日、政府提出の予算案が修正されることはまずないが、かつては修正されることが多く、無修正成立が通例となるのは、大正8年の原敬内閣以降であった。戦後も、昭和30年に保守合同で安定与党が成立するまでは、予算案修正が毎年のように行われていた*11。昭和28年度予算は、日本がサンフランシスコ講和条約(昭和27年4月)で独立を回復した後の初めての予算であったが、吉田首相のバカヤロー解散(昭和28年3月)後に与党自由党が敗北して少数与党になった状況で審議され、野党民主党の発議によって修正された。修正は、一般会計の総額こそ政府提出の9683億円から9655億円への減額だったが、12の事項について増額修正が行われた。これが新憲法の定める政府の予算案提出権との関係で問題となり、国会には政府の予算案提出権を害しない程度の増額修正権があり、今回の修正は政府の予算案提出権を侵害しない程度のものである旨の政府答弁が行われた。続く、昭和29年度、30年度の予算も、予算総額が増加しない範囲内で個別事項での増額修正が行われた。

昭和30年の保守合同*12後には、国会での予算案修正は行われなくなり、その代わりに予算案の国会提出前における政府与党折衝が行われるようになった。保守合同後の初めての予算となった昭和31年度予算では、それまでインフレ抑制のために1兆円緊縮予算が2年間続いていたことへの反発が顕在化した。大蔵省は財政懇談会*13を設置(昭和30年8月)して、「一般会計については、1兆円以内に止めるように努力する」、「公債は発行しない」ことを打ち出した*14。それに対して、自民党の水田三喜男政調会長は、「予算編成方針や重要政策は党内に新設する政策審議会で決め、政府原案決定前に大蔵省と事前に調整する」ことを鳩山首相に申し入れた。閣議提出された大蔵原案は一般会計歳出総額を1兆300億円とするものであったが、その後、自民党の政調各部会から総額3000億の復活要求が出され、最終的な予算規模は1兆350億円となった*15。

国会での予算修正が行われなくなった後に国会で問題になったのが、予算関連法案の取り扱いであった。雑誌『予算』の昭和31年8月号によると「議員立法という名のお手盛り法案がまたのさばりだしたようだが、24回国会(昭和30-31年)ではどんな傾向だったのかね。」「参議院選挙を目の前にした通常国会だったので、でるわでるわ、ものすごかったね。・・・予算を食われる関係から大蔵省は議員立法と聞くとドキリンコンだよ」、「露骨に選挙区を目当てにしたものや、業者の陳情書をそっくり法律に書き替えたようなものとか、利権法案が多いので困る。・・・」「役所の権限争いを代弁するものもあるのだろうね。」「もちろんあるさ。いわゆる『依頼法案』といって、各省がヒモ付議員(その多くは役人の古手)に役所の代りに提出してもらう奴だ。・・・」「議員立法の大量生産で名高いのは農林水産委員会と建設委員会だが、こんどは社会労働、厚生、恩給や給与を扱う内閣など各委員会が総花的に競い合った格好だね。(中略)予算を伴う議員立法は、まかりまちがうと折角成立した国の予算に大きなヒビを入れかねないので大蔵省も重大な関心を寄せている。当今のようにあの委員会もこの委員会もという状況では、主計局がノイローゼにかかるのもムリはない」という状況になったのである。

そのような状況に対して自民党は、予算を伴う議員立法を認めないとの方針を打ち出していった。昭和32年10月30日付の新聞は、「自民党は29日の6役会議で、今後予算措置を必要とする内容の法案は議員提案の形はとらないことにし、政府から提案することにした」と報じている。昭和33年4月4日には、一万田尚登蔵相が閣議で「予算措置を伴う議員立法が続出しているがすでに予算が成立しているのでこれらの議員立法には強く反対する」と述べて閣議了承された。昭和35年2月12日には、佐藤栄作蔵相が、昭和35年度予算案に変更をもたらすような議員立法は好ましくないので慎重にするようにとの旨を自民党に申し入れた*16。そのような経緯を経て、昭和37年2月の自民党総務会長からの申し入れに基づき出来上がったのが与党による事前審査制度であった。

事前審査制度の運用において注目されるのが自民党の党内民主主義である。そこでは自由な意見表明が行われ、少数意見の圧殺などは行われない。江戸時代の寄り合いに見られたような意思決定が行われているのである。部会での議論には、その後の政審、総務会の日程上、一定の時間的な制約が課されるが、その制約の中では1年生議員にも自由な発言が認められている。また、事前審査プロセスを経た法案の国会採決には党議拘束がかけられるが、その後に少数意見を述べることが制約されるというわけでもない*17。「空気の支配」が出来上がるわけではない。なお、そのような手続きを経て提出された内閣提出法案については、与野党の「国対」における意思疎通がうまく図られれば、国会での「言葉の決闘」もなく「円滑」に法案処理される。「根回し」によるコンセンサスの形成が行われるのである。

5.事前審査制度をどう考えるか

以上のような経緯で出来上がった与党の事前審査システムであるが、戦前になかったものが戦後生まれてきたこと、それが国会における与野党間での議論を低調なものにしていることについて様々な批判が行われてきた。中野実氏*18はその誕生の原因を、戦後、無理にアメリカ型の委員会中心主義がとられるようになったことに求めている。中野氏によると「戦前の帝国議会の時代は、イギリス型の本会議中心主義であったから、まさしく高い公開性を有して徹底した討論が行われ、そこでの議論が政策決定に最も大きく作用した。(中略)各党にはそれぞれ歴史に名を残すほどの個性的な雄弁家の議員が多数、存在していた*19。この点では、イギリス議会では今日もなお、本会議での討論こそ議会制デモクラシーの本義という伝統が守られていて、実際、会議場では、まさしく「口角泡をとばす」ほどの激烈な討論が長時間行なわれている。これに対し、戦後、アメリカ議会型の委員会中心主義がとられてからは、まず本会議での討論、ついで委員会での討論がしだいに形骸化し、院外での与野党間の交渉、与野党と官僚相互の「根まわし」型折衝が政策過程に実質的な決定を導くようになっている」というのである。理由は異なるが、やはり戦後の国会制度の変更が事前審査制度の弊害をもたらしたとしているのが大山令子聖学院大学教授*20である。同教授によれば、戦後、議院内閣制を理解しないGHQの主導により法案が一旦提出された後は内閣は国会の議事に介入できない(法案審議の促進手段を全く持たない)という議院内閣制の議会としては異常な米国流の制度が導入された。そこで、事前に法案を固めてしまわなければならなくなったというのである。大山教授は、法案提出後も政府が議事に参加でき、かつ、委員会審議が非公開のドイツやフランスのような仕組みにすれば、政府は与党と事前調整を行なわなくても議会の非公開の委員会審議の場で与党との調整を行えばよくなる。そのようにして出された委員会審議での結論が実質的に与党の「党議」となるのがドイツやフランスのシステムであり、そのほうが透明性も高く望ましいとしている*21。筆者もかつてはそう考えていた。しかしながら、先にみたような予算編成に絡んだ事前審査制導入の経緯からすれば、中野説や大山説だけで全てを説明することは難しいと考えるに至っている。筆者の考えは、帝国主義華やかで、しばしば国家存亡の危機に直面していた戦前には、危機時におけるリーダーシップが不可欠で、江戸時代以来の意思決定の伝統であるコンセンサス重視の仕組みを尊重している余裕がなかった。それが、敗戦後、危機時のリーダーシップを米国に委ねることができるようになった結果、コンセンサス重視を尊重する伝統的な意思決定の仕組みに回帰する余裕が出来た。そこで生まれてきたのが事前審査制度というわけである。

6.「質問責任」が問われなくなった戦後の国会

実は、戦後、コンセンサス重視を尊重して意思決定する仕組みを作り上げられなかったのが野党である。2009年から2012年まで政権を担当した民主党は、自民党のような事前審査システムを持っておらず、政策のとりまとめをうまく行うことが出来なかった。岩田一政日本経済研究センター理事長によれば、「民主党は政権内の意思疎通がとにかく悪かった。それが、政党としての意思決定ができないことにつながったと思います。自民党ならば、総務会で決めたことは、たとえ個人的に反対であっても従うというコンセンサスがしっかりできている。ところが、民主党にはそれがない。各自勝手なことを言うから、時間ばかりかかって、何も出てこない。その意味では、経済、財政、それから外交においても、民主党政権時代は空白だったという気がしますね*22」ということになってしまったのである。元々、野党時代に、事前審査制度のような意思決定システムを持っておらず、政権をとってもそれを作り上げることが出来なかったのである*23。

なぜ野党はコンセンサス重視を尊重して意思決定する仕組みを作り上げられなかったのであろうか。筆者は、それには、戦後、国会で「質問責任」が問われなくなってしまったことが大きいと考えている。「質問責任」*24とは筆者の造語であるが、与党の政策について「説明責任」を問う前提として、野党が自ら責任のある政策を持っていることである。英国型の二大政党制では、野党がそのような政策を持っていることは当然である。与党が失敗したときに、いつでも代わりうるために必要だからである。そのような「質問責任」が、英国議会における「言葉の決闘」を成立させているのである。そこでは、野党の質問に対して政府側から厳しい反論がなされる*25。ところが、わが国の国会では、政府が野党の質問に反論すると「こちらが聞いていないことまで述べるのは質問権の侵害だ」として制止される*26。それでは、野党として、政府側からの反論に耐えうるような政策を持っている必要がないということになってしまう。与党が失敗した時にいつでも代わりうる政策を持っている必要がないということになる。野党の政権担当能力が問われる場面がないということである。政府側としては、反論できない以上、あらかじめ用意した想定問答どおりの答えをして無難に切り抜けるということになる。その相互作用として、国会での「説明責任」も形骸化してしまっているというわけである。

そのような戦後の国会で、野党が行ってきたのがわが国独特の日程戦術である。その戦術は、政府提出法案の会期末廃案を避けるために与党が強行採決を行えば、マスコミに対して与党独裁の「見せ場」を作らせることになり、それへの批判から次の選挙戦で与党は不利になる。そのような「見せ場」をつくらせないために、与党から一定の妥協を引き出せることから、野党にとってそれなりの合理性をもった戦術だという*27。しかしながら、それに関しては「議論することで野党の存在感を示すのでなく、審議をしないことで影響力を作り出すというのは議会政治の姿としては歪んでいる」との批判も行われてきた*28。

7.予算審議が行われないわが国の予算委員会

野党の日程戦術の主な舞台となっているのが予算委員会である。わが国の予算委員会は、予算委員会と言いながら、ほとんど予算を審議しないという諸外国に例を見ないものになっている*29。それは戦後、米国型の委員会中心主義が導入されて、それまでの英国型では本会議場で行われていた「質問」が行われなくなり、それに代わる場として予算委員会での「質疑」が用いられるようになったことからだと考えられる。そのようなわが国の予算委員会における、財務大臣や首相の出席の頻度も諸外国に例を見ないものになっている。英国の歳出委員会に大蔵大臣の出席が求められるのは、冒頭3日間と最後の採決のみである。ドイツの予算委員会で大蔵大臣が出席を求められるのは首相府と大蔵省の予算審議のみである。他の西欧諸国も、同様である。首相が予算委員会の審議に日本ほど頻繁に出席を求められる国もない。英国の首相は、第一大蔵大臣(The First Lord of the Treasury)である*30が、首相が議会の審議に出席するのは、基本的にクウェスチョン・タイムの審議だけである。わが国では、そのような形で予算委員会が「見せ場」作りの場になっているのである。

我が国で、野党が日程戦術で「見せ場」作りの戦術をとるようになったのは、戦後の60年安保反対闘争以来だと言われている。当時の岸内閣は、議会での多数を背景に審議を進めたが、「多数の横暴」との批判が高まる中デモ隊が国会を取り囲み、最終的に安保条約は可決したものの退陣に追い込まれた。それが、野党の大きな成功体験になって「見せ場」作りの戦術をとるようになったというのである*31。それは、英国のみならず、フランスやドイツなどでも見られない慣行であり、国会での政策議論に主軸がない結果として、与野党ともに政策面で党首のリーダーシップの発揮が難しい状況を作り出していると言えよう。

8.危機対応と財政

我が国の意思決定の仕組み、リーダーシップの在り方は、今後、どうなっていくのであろうか。現在の状況が、戦後、危機時のリーダーシップを米国に委ねることが出来るようになった環境の下で誕生してきたものだとするならば、今日、米国が「世界の警察官」であることをやめると宣言した状況下では、変わっていかざるを得ないと考えられる*32。そのような状況下、野党においても提案型の国会論戦をしていかなければならないと言われるようになってきている。政権担当能力を示さなければならないということであろう*33。今日、新型コロナ対策での各国の財政赤字の積み上がりぶりには著しいものがある。2020年度の米国の財政赤字は350兆円にも及ぶと見通されている*34。このままでは、やがて財政再建が世界的な課題になっていくことは確実である。その場面では、財政再建について各国それぞれのリーダーシップが問われることになろう。わが国のリーダーシップも問われることになるはずである。

*1)軍部ファシズムに迎合する国民世論に対して、最後の元老といわれた西園寺公望は、国民の政治教育を徹底化することで国民のレベルを上げる以外ないと嘆いていた(「政治家とリーダーシップ」山内昌之、岩波書店、2001)。

*2)ここでの人格を尊重する議論とは、批判するにしても相手の考え方そのものをまずは理解することに努めるといった議論である。

*3)筆者は、日本語の構造自体に内在している日本文化がその背景にあると考えている。「和をもって貴しとなす」との聖徳太子の17条の憲法も同じ考え方の発現といえるのではということである。

*4)EUの意思決定においても、政策分野によっては全員一致が求められている。

*5)「山縣有朋の挫折」松元崇、日本経済新聞出版社、2011、p37-38参照

*6)「政治とは何か」竹下登回顧録、講談社、2001

*7)「人間通」谷沢永一、新潮選書、2008

*8)2002年3月には、自民党の国家戦略本部でも、事前審査を法案提出の条件とせず、総務会で特に必要と認めた案件等についてのみ党議拘束とするといった改革案を取りまとめたが、実現には至らなかった。

*9)ここで、世界には「根回し」が機能しない国が多いことに思いをいたすべきであろう。先の戦争後に独立した多くのアジア・アフリカ諸国で民主主義の多数決がもたらしたのは「多数の横暴」で、結局軍事独裁国家になっていった。その原因の一つが、民族や宗教の対立が激しい国では「根回し」が機能しないことにあると考えられる。

*10)以下の記述は、主として「日本の国会制度と政党政治」(川人貞史、東京大学出版会、2005)によっている。

*11)政府原案通りに予算が成立した最初は、日露戦争後の明治41年度予算であった(「強硬に立ち向かった男 高橋是清」松元崇、中公文庫、2012、p136)。

*12)昭和30年11月15日。いわゆる55年体制が成立した。

*13)後の財政制度等審議会

*14)9月14日の財政懇談会中間報告

*15)昭和31年度予算案は、「気の抜けたビールのように、ただ低調の一語に尽きる」と言われる審議の後、原案通り可決成立した。

*16)自民党は、予算に予定していない国費の負担或いは歳入の欠陥を生ずる内容の議員立法または法案の修正を差し控えることを総務会決定した(昭和35年11月30日)。

*17)筆者は、主計局で7年間にわたり農林の主査・主計官を務めたが、農林部会では、深夜、反対議員が退席したところで部会長に一任する形の意思決定が行われていた。退席した議員は、決定には従うが、自分がいないところで勝手に決められてしまったと言って自説を主張し続けるのが常であった。

*18)『日本の政治力学』中野実、NHKブックス、1993

*19)歴史に名を遺す雄弁家としては、陸軍大臣との間で「腹切り問答」を行った浜田国松、2.26事件を糾弾する「粛軍演説」を行った斉藤隆夫が有名である。政府側の反論としては、第2回帝国議会で行われた樺山資紀海軍大臣の「蛮勇演説」がある。大蔵大臣の高橋是清も井上準之助との間で激しいやり取りを行っていた。「言葉の決闘」の代表例としては、前回紹介した統帥権干犯問題を巡る議論が有名である。

*20)「国会学入門」大山礼子、三省堂、1997

*21)大山教授は、フランスのように、政府が法案の成立に信任をかけるような手段(本稿第3回、注9)の制度化も検討すべきだとしている。同教授は、戦後の国会における与野党間の討論の空洞化を示しているのが、帝国議会時代に各会期毎に刊行されていた「衆議院報告」に匹敵する刊行物が現在は出されておらず、1954年以降、国政調査報告書も提出されていないことだとしている(「比較議会政治論」大山礼子、岩波書店、2012)

*22)「平成の経済政策はどう決められたか」土居丈郎、中公選書、2020

*23)1994年に成立した自社さ政権は効率的な意思決定システムを創り上げて消費税の3%から5%への引き上げなどを行った。自民党が一翼を担っていたことが、その理由と考えられる。

*24)「説明責任」も近世に入ってから登場してきた新しい概念である。これは、筆者が人事院の研修(日本アスペン研究所)で指導していただいた哲学者の今道友信先生(元世界哲学協会会長)に伺った話である。

*25)本稿第2回「英国の選挙と議会」参照。

*26)この慣行は、「質問」と「質疑」の混同からのものと考えられる。「質疑」とは、委員会に付託された案件についての疑義を質すために行われるもので(国会法第47条)、それへの反論はあり得ない(例えば法案の条文の解釈について質すもの)。それに対して「質問」は、本会議で行われるもので、内容についての制限はなく「反論」も許される(国会法第74条、75条)。「質問」への「反論」の否定は「議論」の否定になってしまうのである。

*27)「永田町政治の興亡」ジェラルド・L・カーティス、新潮社、2001

*28)「政治改革」山口二郎、岩波新書、1993

*29)この点に関しては、国会で予算修正が行われないからやむ得ないと言われることがあるが、実は英国でも予算修正は行われていない。それは、筆者が主計局の調査課長だった時、財政制度等審議会の委員だった芦部信義教授に指摘されたことである。ちなみに、英国では、政府予算案の審議に関して慣行として29日の範囲内で野党が討議すべき議題と時期を選ぶことが保障されている(Opposition Days、「野党の日」)。我が国でも戦前の議会では予算審議には21日以内という制限がかけられており(「恐慌に立ち向かった男 高橋是清」p137)、その範囲内で今日の英国と同様の活発な審議が行われていた。

*30)宮沢俊義教授の定義によれば、「予算は毎年の行政計画の財政的な表現」である。行政計画の最終責任者は第1大蔵大臣である首相であるが、多忙な首相が第2大蔵大臣にその仕事を任せているのが英国である(「英国の財政制度」松元崇、ファイナンス2001.3)。

*31)そのようにして出来上がった「見せ場」づくりの政治からは、国民には与野党は不倶戴天の敵のように見えていたが、実は国民生活に直接つながるような政策については、与党が野党が求める政策の導入にも前向きだったことから、与野党の違いはそれほどでも無かった。そのことが、55年体制崩壊後の政局における自社さ連立政権の誕生(1994年)につながったとされている。

*32)小選挙区制の下で、与党のリーダーシップに変化がみられるとの指摘もある。

*33)野党が政権担当能力を示すためには、ディベート教育の充実も必要であろう。ディベート教育については、「『持たざる国』への道 高橋是清暗殺後の日本」松元崇、大蔵財務協会、2010、p223-232参照。

*34)米国議会予算局(CBO)財政見通し(2020.9.3)