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路線価でひもとく街の歴史 第7回

「兵庫県尼崎市」 工都尼崎から史跡豊かな城下町へ

兵庫県尼崎市といえばわが国産業革命史に残る尼崎紡績(現・ユニチカ)や旭硝子(現・AGC)の発祥地で工業都市のイメージが浮かぶ。阪神尼崎駅の北側に縦横に広がるアーケード商店街は日本一早い阪神タイガース優勝マジック点灯式でも有名だが、総延長2kmに及ぶ屈指の規模だ。東西軸の尼崎中央商店街、南北軸の三和本通が交差するところが街の中心で、路線価図で確認できる昭和32年以来、平成に至るまで尼崎市の最高路線価地点だった。

阪神高速の下が戦前のメイン道路

もっとも駅の北側が賑やかなのは戦後から。それまでの中心市街地は駅の南側にあった。国道2号が開通したのは昭和元年(1926)で、中国街道の今でいうバイパス路線だった。沿線の市街地開発が進んでいたが戦前は田畑や空き地が多かった。工都尼崎は江戸時代から続く城下町でもあり、地図からその輪郭が読み取れる。まずは庄下川の流路が城下町の区画を反映している。線路の南にある寺町の寺院群が城下町の北の縁。西端には貴布禰(きふね)神社があった。神社の西側の道は昭和初期まで水路で、水路は三和本通の脇を北上していた。庄下川の東側は城内地区といい、尼崎城の城郭にあたる。

昭和32年頃の地図では城内地区の南辺に国鉄尼崎港駅が見える。開業は明治24年(1891)で、明治38年(1905)に開業した阪神尼崎駅より早い。当時は伊丹・尼崎間を結ぶ川辺馬車鉄道の駅だった。摂津、阪鶴鉄道の時代を経て明治40年(1907)に国有化。国有化時点の駅名は「尼ヶ崎」で、今のJR福知山線の、塚口駅から枝分かれした支線の終着駅だった。昭和24年(1949)に「尼崎港駅」に改称。同時にそれまで「神崎駅」と称していた駅が「尼崎駅」になった。今のJR尼崎駅である。

尼崎港駅の前の東西の通りが戦前のメインストリート「本町通り」である。今の国道43号線で、頭上には阪神高速神戸線がある。朝から晩まで乗用車やトラックが行き交う現在の風景からは、ここが人通り多い商店街だったと想像しにくい。往時をしのぶ数少ない近代建築が旧三和銀行である。大正12年(1923)に尼崎共立銀行の本店として建てられた鉄筋コンクリート造で、昭和に入り山口銀行となった。山口銀行は三十四銀行、鴻池銀行と並ぶ三和銀行(今の三菱UFJ銀行)の前身行のひとつで、ここも昭和11年(1936)に三和銀行尼崎支店となった。本町通りには三十四銀行や野村銀行(後の大和、今のりそな銀行)もあった。旧三和銀行を曲がったところに尼崎信用金庫の創業地がある。地図の昭和32年時点の店舗は2代目で昭和5年(1930)の建築。「世界の貯金箱博物館」として現存し、同じ並びには初代本店が移築保存されている。

これまで見てきた街と同じく尼崎も街道由来の中心地から「バイパス沿い」に移った。とはいえ尼崎の場合は車社会というより戦中の建物疎開が要因だ。道路拡幅で本町通りの南側の商店が立ち退いた。戦災後も元の場所に戻らず、商店主は阪神尼崎駅の北側に新天地を求めた。本町通りにあった三和銀行の支店は国道2号沿いに移転。他行もその近隣に出店した。当時国道に路面電車が通っていたこともある。路面電車は昭和50年(1970)に廃止されたが、その後も国道2号沿いにオフィス機能が集積している。

図表.地図 昭和32年(1957)頃の尼崎市中心部

歴史まちづくりからのシチズンシップ

高度成長に伴う都市化は市の全域に及んだ。そのうち工業化が潮目を迎え、市内各所で工場跡地の再開発が始まった。大型店の出店を機会に中心街が分散。平成に至るまで阪神尼崎にあった最高路線価地点が、平成11年(1999)に阪急塚口駅北側に移転。その後JR尼崎駅前に移転し現在に至る。阪神尼崎のアーケード商店街は今も賑わっているが、シャッターを閉じた店も外縁から徐々に増えてきている。

一方で南側の旧城下町の再生が見えてきた。修景が進み、寺町の寺院群には石畳の遊歩道ができた。一帯が都市美形成地域に指定され、伝統的な街並みにふさわしいガイドラインが定められている。尼崎市出身の漫画家、尼子騒兵衛氏が描いた寺町イラストマップも好評だ。原作の人気アニメ「忍たま乱太郎」の登場人物が寺町の見どころを紹介している。ちなみに「忍たま乱太郎」の登場人物の名前は尼崎市の地名からとられている。ゆかりの地名を巡る「聖地巡礼」が盛んだ。

昨年、尼崎城の天守閣が一般公開された。尼崎市で家電量販店旧ミドリ電化を創業した安保(あぼ)詮(あきら)氏が約12億円の私財を投じて再建し、市に寄付したものだ。篤志に共鳴した市民の募金も約2億円集まった。鉄筋コンクリート5階建だが、4層の天守閣の外観は絵図面等を調べ可能な限り忠実に再現した。内部はテーマパークで、歴史解説パネルや着物体験などがある。元々天守閣があった本丸跡から300mほど離れた城址公園に建った。西三の丸があった場所だ。本丸跡には昭和8年(1933)築の旧尼崎高等女学校(前頁地図の市立高校)があったからだ。今年の10月には歴史博物館に生まれ変わる。

歴史的建築は城の通りに沿って集まっている。西から大正15年(1926)築の旧中央警察署、昭和12年(1937)に完工した旧尋常高等小学校(地図の市役所)。庄下川を渡ると寺町の手前に同年竣工の旧開明尋常小学校がある。同じ通りの城の東側、外堀跡(大物川跡)の細長い北浜公園を抜けると尼崎紡績の本社だったユニチカ記念館が見える。城址公園の北隣の阪神電鉄旧尼崎発電所、尼崎信用金庫初代本店と並ぶ明治の赤レンガ建築で、後世に残る産業遺産である。

平成20年の城内地区まちづくり基本指針も後押しに、城下町の史跡が街の魅力を上げるコンテンツとなった。尼崎城の再建で点在する史跡が線から面につながった。観光効果もさることながら、重要なのは住民がわがまちに持つ誇りと愛着、いわゆるシビックプライドだ。天守閣を見て尼崎が元々城下町だったことを知った人も少なくないと聞く。工場の煙突から煙がたなびく工業都市のイメージが変わりつつある。平成28年、市制100周年の節目の年に施行された自治まちづくり条例のキーワードのひとつがシチズンシップだ。地域コミュニティの一員としての当事者意識と行動力のことで、自分の街に関心を持ち、学び、知ることがその土台になる。尼崎市はオープンデータの一環で明治以降の古地図をweb公開している。地域史版のweb百科事典「apedia」もある。本稿を書くのに役立ったが、こうしたツールにもその考え方がよく現れている。

プロフィール

大和エナジー・インフラ 投資事業第三部副部長

鈴木 文彦

仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。2018年から現所属に出向中