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路線価でひもとく街の歴史 第5回

「宮城県仙台市」杜の都の金融街は国分町から青葉通りへ

独眼竜で知られる藩祖伊達政宗公の時代、仙台城下町は慶長6年(1601)の屋敷割をもって始まりとされる。明治に入り師団司令部、旧制二高や東北帝大が置かれ、今なお東北の政治経済の中心だ。大企業の支店、筆者が在籍した東北財務局をはじめ国の出先機関が集まる。人口109万。東側を除く三方を山に囲まれた地勢のコンパクトな街は「杜の都」と呼ばれ、とりわけ青葉通りや定禅寺通りのケヤキ並木が有名だ。

碁盤の目状の町割りの原点・芭蕉の辻

自然発生した街と異なり、仙台城下町は元々計画的につくられた。起伏による不整形はあるが、基本は碁盤の目状の町割りだ。仙台城に通じる東西の大手筋がx軸で、手前から道に沿って大町、新伝馬町(しんてんまち)、名掛丁(なかけちょう)の順で町名が付される。これに直交するy軸が奥州街道で、街なかの直線区間は南から南町、国分町、二日町、北鍛冶町という町名になる。南北の通りは奥州街道から東に一筋ずれるごとに東一番丁、東二番丁と数字が増え東十番丁まで。東西の通りは県庁北面を北一番丁とし北八番丁まである。

グリッドの原点つまりx軸とy軸の交差点は「芭蕉の辻」と呼ばれた。仙台城下の旧町名は末尾が「丁」(ちょう)は武家地、「町」(まち)は商業地と使い分けられている。つまり芭蕉の辻は開府以来の商業地である大町、国分町、南町が交差する城下町一番の商業拠点だった。明治以降も引き続き中心街だったが、国分町に銀行、保険会社など金融機関や事業会社が集積し、押しのけられるように元々武家地だった一筋隣りの東一番丁に商店街が広がっていった。老舗呉服店の藤崎が仙台初の百貨店を開店し、昭和初期に三越が支店を出したのも東一番丁だった。

国分町の金融街

路線価図が登場した昭和32年(1957)。東一番丁の藤崎百貨店前(図中1)は仙台で2番目に高かった。最高路線価は「丹六菓子店前青葉通り」(図中2)である。丹六菓子店は菓子の量り売りで知られた人気店で仙台駅の正面にあった。以来60年以上にわたって仙台の最高路線価地点は変わらない。

他都市に比べ駅前の発展が早いのには事情がある。煙を吐く機関車が主力だったころの鉄道は、市街地を迂回するルートを辿るのが通常だ。仙台においても現在地の約2kmほど東、今の貨物支線の仙台貨物ターミナル駅の場所に駅を設置する計画だった。これに待ったをかけたのが中心地の衰退を案じた地元の商業者たち。粘り強い請願の末、現在地に落ち着いた。仙台駅は明治20年(1887)に開業。市街地の外縁ではなく中にできた。地図を見ると路線が街の中心に引っ張られたかのように 駅の近くで“く”の字になっている。

令和2年(2020)、青葉通りのm2当たり318万円に対し東一番丁は172万円と倍ほどの差がある。他方、昭和32年(1957)の時点では青葉通りの坪当たり14.5万円に対し東一番丁は13.3万円と1割以内の差にとどまる。昭和30年頃の仙台は駅前と芭蕉の辻界隈の2極体制と言えよう。芭蕉の辻界隈は街の中心たる地位を保っていた。国分町は戦前に引き続き業務中心地で、芭蕉の辻の4つ角のうち3つを銀行が占めた。まずは北東角に日本銀行があった。昭和16年(1941)の開設で今も同じ場所にある。南西角には明治11年(1878)創業の地元地銀、七十七銀行が本店を構えていた。日銀がある北東角から昭和4年(1929)に移ってきた。北西角には富士銀行の支店があった。戦前の安田銀行で仙台には明治21年(1888)に進出。東京に本店がある銀行では最も早い。

他にも、地元地銀の本店や大都市を本拠とする都市銀行の仙台支店が国分町近辺に集積していた。宮城県が地盤の徳陽、振興の両相互銀行(当時)が国分町で設立、本店を構えた。日本興業銀行は昭和33年(1958)に国分町に移転してきた。同行の仙台進出は昭和19年(1944)で東一番丁にあった。東一番丁の南町通角には協和銀行があった。富士銀行と同じく戦前から仙台に支店を出していた。戦後、都銀が仙台に初出店するときも国分町周辺が選ばれた。昭和20~22年まで三菱銀行が国分町、三和および第一両行が東一番丁、住友銀行は新伝馬町に支店を構えた。

図.昭和30年頃の仙台中心部

戦後復興と青葉通りの新・金融街

最高路線価地点の青葉通りは戦災復興の区画整理でつくられた道路で完成は昭和29年(1954)。完成とほぼ同時に最高路線価地点となったことになる。最も広いところで幅50mあり、同じく戦災復興の一環で50mに拡幅された東二番丁と並び戦後仙台のメインストリートに目された。当初は閑散としてた様をもって「仙台砂漠」「滑走路」などと言われたそうだ。

その後、青葉通りは段階的に業務中心地の地位を獲得してゆく。国分町周辺に集積していた地銀本店、都銀等の支店が昭和30年代後半から20年弱かけて青葉通りに移転。新たに進出した銀行も青葉通りを選んだ。平成元年(1989)の地銀本店、都銀等の支店の分布を見るとその大部分が青葉通りにある。その中心、東二番丁・青葉通りの交差点に着眼すると昭和36年(1961)に富士銀行が北西角に移転。昭和44年(1969)には日本長期信用銀行が南西角に越してきた。南東角には昭和52年(1977)に七十七銀行が本店ビルを新築し広瀬通から移ってきた。4つ角のうち3つを銀行が占める「新・芭蕉の辻」と言ったところか。

平成の度重なる再編統合を経て都市銀行はメガバンクと呼ばれるようになった。令和の現在、メガバンクはじめ大手銀行の支店と地元地銀の本店はすべて青葉通りに面している。仙台の場合、駅の引力もさることながら、経済の拡大に伴って城下町の町割りが手狭になり、広い区画を求めてビジネス拠点が移転した文脈がある。東京なら日本橋と丸の内のような関係が国分町と青葉通りにうかがえる。現在、国分町は広瀬通から北が東北最大の歓楽街、住居表示が「一番町」となった東一番丁はブランド店が並ぶファッション街だ。業務中心地の面影を残しつつ、城下町時代の町割りの上に歓楽街と商店中心街が隣り合う。こうした新旧の混然一体ぶりが独特の魅力を醸している。

プロフィール

大和エナジー・インフラ 投資事業第三部副部長

鈴木 文彦

仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。2018年から現所属に出向中