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新々私の週末料理日記 その36

4月△日日曜日

季節は春である。徒然草に「もののあはれは秋こそまされと人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあめれ」(第十九段)とある。周囲からは「花より団子」党と思われている私ではあるが、ここ何年かは、桜が咲き始めると、日々花の開き具合を気にし、花に嵐の心配をしながら、葉桜になるまで桜のことばかり気になってしまう。徒然草に書いてあるとおりである。兼好法師が徒然草を執筆したのは40代といわれているから、15年か20年遅れでようやく彼の心境に、形だけは追いついてきたということか。

それはともかくとして、今年はコロナウィルスのせいで、春だというのに楽しめない。家に籠ってばかりだと逼塞(ひっそく)感で鬱々としてしまう。江戸時代に「逼塞」という刑罰があったそうだが、今はまさしく「逼塞」である。いや、「逼塞」は門を閉ざして日中の出入りを許さずということだったようだから、夜間の外出自粛の今は差し詰め「閉門」というところか。

兼好法師は花の話に続けて、「灌仏のころ、祭のころ、若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされと人の仰せられしこそ、げにさるものなれ」と、若葉が涼しげに茂る様子は、世の物悲しさや人の恋しさにもまさると説く。同感。灌仏会は4月8日だが、旧暦だから今の4月末頃。葵祭は5月15日。5月半ばだと、若葉というより青葉かな。いずれにせよ、涼しげに茂っている樹木の脇を歩いても、キープディスタンスというのだろうか、人と距離を確保するのに気を取られているのでは、風情は楽しめないだろうな。

若葉の次は青葉。目には青葉山ほととぎす初鰹。初鰹といえば5月か6月だろう。初夏の季語を三つ並べたこの有名な句は、江戸時代享保期の俳人山口素堂の作である。因みに、この句には「鎌倉にて」と前書きがあり、物の本によれば、素堂は徒然草第119段「鎌倉の海に鰹といふ魚は」という一節を踏まえて詠んだという。徒然草の同段は、最近鎌倉では鰹という魚が珍重されているが、昔は身分の高い人の前には出さなかったものであり、末法の世になったので鰹のような下魚が上流階級でも喜ばれるようになってしまったという話である。兼好法師が末法と嘆いた鰹は、江戸時代になると「まな板に小判一枚初鰹」とか「女房を質に入れても初鰹」というぐらいに成り上がった。まあ鮪のトロなども、江戸時代はもちろん昭和初期までは、猫も食べないという意味で「猫またぎ」と呼ばれて捨てられていたのであるから、世の中の価値観というものはわからないものである。

桜と新緑の話がいつの間にやら鰹と鮪の話になってしまった。閑話休題。さしあたっては今日をどう過ごすかだ。緊急事態宣言やら自粛要請やらで、せっかくの週末ながら、近所のなるべく人通りの少ないところを散歩するほかはやることがない。あらかじめ図書館でどっさり本を借りておけばよかったのだが、借りていた本を読み終えて、次の本を借りに行こうと思った矢先に臨時休館になってしまった。無聊をかこつとはこのことか。

結局日々テレビの前で過ごす時間が長い。人生の後半、麻雀で言えば南2局も終盤戦という年齢になって無為徒食に日がなテレビの前にいるのは情けないが、仕方がない。因みに中国語では、「仕方がない」は「没法子(メイファーズ)」というらしい。ただ、日本語の「仕方がない」とは少しニュアンスが違うと聞いたことがある。はるか昔に読んだ和辻哲郎の文章の中で、政府の保護を期待しえない戦前の中国の民衆について論じた文脈があった。その中で、中国語の「没法子」という言葉の裏には、軍閥や馬賊のような抵抗できないような強い力にはとりあえず忍従するが絶対服従するわけではない、つまり面従腹背する底知れぬふてぶてしさがある。また、海賊に襲われるかもしれない海上輸送業に、頼りないジャンクで家族を連れて平然と携わり、心配しても軽減されない危険には徹底して無感動でいるたくましさがある。という趣旨のことが書いてあったように思う。そう考えてみれば、人と接する機会を減ずるよりほかにコロナウィルスに対抗する術がない以上、当面あれこれ考えずに、すなわち「無感動に」素直に家に籠ってひたすらテレビを観るというのも、一見受動的に見えるがふてぶてしくたくましい生き方といえるのではないか。

と、わけのわからぬ自己弁護でまた話がそれてしまった。元に戻すと、テレビを観るといっても、ニュースと時代劇以外は観る気がしないので、ウェブ配信の映画をテレビの画面で観ることが多い。今日は午後から「ゴッド・タウン 神なきレクイエム」を観た。ウェブ上では、名優フィリップ・シーモア・ホフマン最後の主演作と紹介されている。映画や俳優に詳しくないが、観終わってみると、確かに名優だと思う。

「ゴッド・タウン 神なきレクイエム」をご覧になっていない方のために、簡単に映画の筋を説明しよう。1980年代フィラデルフィア郊外のゴッズ・ポケットは、低所得者たちが暮らす生気のない町である。他所から流れてきたうだつの上がらぬ中年男のミッキーは、友人とトラックの積み荷を盗むような仕事で食べている。朝の食卓で、色っぽい妻のジェニーが地元紙を広げている。「ゴッズ・ポケットの男たちは単純だ。働き、野球を観戦し、結婚をして子供を持つ、町を出るものはいない。ほぼ全員が盗みの経験者で、子供の頃、人の家に放火。戦うべきときわれ先にと逃げ出す連中。イカサマが好きで親は子供を殴る。何があっても町を離れないし誰も変わることはない。町を出ることだけは、決して許されないのだ」。初老記者リチャードのコラムを読み上げて、「的を射ている」と言うジェニーに、ミッキーが「誰もが承知していることを書いて何が偉い?」とたずねる。ジェニーが「よそ者には分からないわ」と応ずる。

ある日、ジェニーの連れ子であるチンピラのレオンが日雇い仕事の現場で殺される。黒人労務者にナイフをちらつかせて散々絡んだ挙句に、怒った相手に撲り殺されたのだ。職場の連中が犯人をかばった結果、嫌われ者のレオンの死は事故として処理される。レオンの葬儀のために近所の酒場の主人がカンパを集めてくれるが、だめ男のミッキーはもらった金を競馬ですってしまう。ミッキーは葬式の金策に走り回り、ドタバタを演ずる。一方ジェニーは、息子の死には隠された真相があるのではないかと疑う。しかし、調査取材にきたアル中で女好きのリチャードに口説かれ、あっけなく体を許してしまう…。

すったもんだの葬儀の後、ゴッズ・ポケットの連中が酒場で呑んでいるところへ、リチャードが入ってくる。彼はコラムで「…レオンは典型的なこの町の男だった。顔は薄汚れていて学もなかったが、身なりには気を使う。彼らは働き結婚し、子供たちも町に住む。結婚後も実家を出ない。酒を飲む決まりの場所は町の場末のバーだ。そこでわかりもしないことを論じる。政治や人種差別、宗教について。最後には皆と同じように死ぬ。家族に家と思い出を残して死んでいく。それは威厳ある死だ」と、本人としては共感を込めたつもりの気取った文章を書いていた。当然歓迎されると思っていたリチャードだったが、町の連中からは「よそ者が馬鹿にしやがって」という怒声を浴びせられる。「ここは私の町だ」「あれは賛辞だ」と弁明するが、店の外に連れ出され、リンチを受ける。止めようとしたミッキーに、なじみの店主は「よそ者は黙れ」と怒鳴るのだった。

小さな町の排他性のやるせなさと、見下した筆致で庶民に共感しているつもりの似非インテリ記者の悲しい滑稽さ。それらは程度の差こそあれ我々の周囲にもありそうなのだが、そうしたもののほろにがさを感じながら、ゴッズ・ポケットの退廃した雰囲気の余韻を楽しんでいたら、もう夕方である。

このところ子供たちがテレワークとやらで暇を持て余しているものだから、今我が家はちょっとした料理ブームである。ちょっと油断すると台所を占拠されてしまう。台所が空いている今のうちだ。早々に豚挽肉の香菜風味蒸し物に取り掛かからなくちゃ。

豚挽肉の香菜風味蒸し物のレシピ(4人分)

〈材料〉 豚赤身挽肉(又は合挽肉)200g、玉ねぎ半個(みじん切り)、椎茸4個(石突を切り落とし、みじん切り)、セロリの葉10枚程度(みじん切り)、香菜(コリアンダー)1束(茎の部分をみじん切り、葉は他に使う)、白菜の葉2枚(一口大に切る)、おろしにんにく小匙1、生姜1片(みじん切り)、酒100cc、中華スープの素小匙1。五香粉2振り、塩小匙1

(1)蒸し器と、蒸し器に4つ入る深めの器(茶碗蒸し用の椀など)を用意する。(手ごろな器がない場合は麺用のどんぶりか深めの皿で一つにまとめて作って、食べるときに分けてもよい。)

(2)白菜以外の材料をボウルに入れ、混ぜる。

(3)器の底に白菜を入れ、その上に4等分した(2)を盛る。

(4)器を蒸し器に入れ沸騰後20分ほどで完成。

*好みで、ラー油を垂らしてもうまい。