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新・エイゴは、辛いよ。 第一回

大矢 俊雄

― 第一回 マニラ編 ―

最後に「エイゴは、辛いよ。」を寄稿してから、5年間のご無沙汰です。

うち3年間はマニラのアジア開発銀行(ADB)で予算人事局長という仕事をし、日本に戻った後もルワンダとかマダガスカルとかあちこち出張し、お伝えしたいことが溜まってきました。なかなか移動もままならない最近の世界情勢の中、少し耳新しい外国での暮らしの話をして、皆さんが少しでも日本の外に心を馳せて楽しい気持ちになってくれればという思いで今号から3回書かせて頂きます。

第1回はマニラ編です。初めて暮らす異国の地、職場の国際機関で多様な国籍の人々とエイゴで仕事する。日々悲喜苦楽感涙絶えず。しかし職場の中でも外でも私に元気と笑顔をくれたのは、フィリピンの人たちでした。以下文体を変えていつもの調子で話を始めます。

1.まずは楽になろう

(1)ゴルフ場編

フィリピンは、日本と文化も言葉も考え方も違う。マニラで暮らす日本人の中でも、楽になれる人と、楽になれない人がいる。楽になれない人は不幸である。楽になれると、この街は直ちに貴方の故郷になる。それは全て貴方次第。

着任早々、ゴルフ場で、試された。

マニラ近郊には美しいゴルフ場が数多くある。プレーヤー1人にキャディー1人が付き、その多くは丁寧で親切でゴルフに詳しいプロフェッショナルである。

ある名門と言われるコースの後半のホールで第1打を打とうとして周囲を見た。しかし自分のキャディー(女性)が見当たらない。前後左右360度見たが、いない。おかしいな俺の球は何処に行くか分からんから見ていて欲しいなあと思いながら打った、その直後、右斜め後ろ45度の方角で、5mほどの高さの木の上でがさごそ音がした。さては怪しい動物かと身構えたその時、ゆっくりと、横枝に足をかけながら、キャディーが下りてきた。地面に降りるや否や、満面の笑みで、こちらを向く。何かを両腕に一杯抱えている。

「これ、マンゴー。」なに? え? 俺の球を見ないでマンゴーの木に登っていたのか?

「This is for YOU, Sir.」余りにも自然な、スマイルである。10個以上のマンゴー。

ここで、怒ってはいけない。

これこそが、フィリピンの人の、おもてなしなのである。身の危険も顧みず、木に登ってお客様のためにマンゴーを採る。日本の人に喜んでもらいたい。

冷静になろう冷静に。これを超えれば、楽になれる。ここで即時「Thank you」と言って、よく熟れた黄色のマンゴーを受け取るのだ。そして2倍の微笑みを返すのだ。

That was my turning point in Manila.

いくつかの心の葛藤を超えて、自分にも出来た。そして楽になれた。

(2)職場編

ADB3,000人強の全職員のうち、1,400人以上は本部勤務のフィリピン人である。彼ら彼女らの質は極めて高い。ADBのクオリティはこうした地元採用職員に支えられている。みんな勤勉実直である。そして上司幹部を無限定に敬い、忠実に仕える。

最初は、みんな上司である私の前で緊張し、硬い表情を崩さなかった。これではこちらの居心地も悪く、お互い楽になれない。楽になるため、決心し、冗談を言うことにした。スベるのも覚悟の上である。I determined. いけない余り力が入ると却って滑る。

Aprilというファーストネームのフィリピン人女性スタッフに、子供が生まれた。産休明けで出勤した時に、彼女に聞いた。「男の子だってね。名前はJune? July?」

2秒の耐えられない静寂があった。時が、止まった。しかし2秒経た後、Aprilは突然吹き出し、後ろを向いて激笑してくれた。上司の前でバカ笑いしてはいけないという慎みがそうさせたのであろう。

これで、楽になった。彼女も、楽になった。

(注1)Mayという名前はフィリピンには結構いるので、あえて外した次第。こういう配慮も必要であると、今なら誇らしげに言える。

(注2)当然、「部下が配慮して無理に笑ったのではないか。2秒は演技を決意するために必要だったのでないか」という空虚な解釈もあり得よう。しかしそれ以来、彼女も私も楽になったのは事実である。但し上司への尊敬の念の変化は別の話である。

(3)今日も懺悔で楽になろう

ADBでは、クリスマスの頃に、Retreatと称して各部局ごとに近くのホテルの部屋に終日こもり、今後の業務の方向性等について議論を行うイベントがある。終了後のささやかな打ち上げで、懺悔・告白セッションがある。あるRetreatでは、「留置場に1晩お世話になったことがある」が2人、「ソ連軍の戦車を操舵したことがある」が1人、「かって舞台俳優で米国の劇場でレギュラー出演していた」が1人、「マニラの日曜の教会ミサのライブTV放送で、聖書を毎回朗読している」が1人。更に「実は錠前開けが趣味でどんな鍵も1分で開けられる」が1人。

こういう告白をされると、突っ込んで聞いてあげなくてはいけない。特に何故留置場のお世話になったのか。1人はオーストラリア人の女性スタッフで、当時付き合っていた米国人の故郷に一緒に行った際、ささいなことで口論になり更につかみ合いになり、この男の故郷だったので多勢に無勢、彼女だけ警察に連行されたと言う。「もちろん、その男とは二度と会わなかった。最低よ。でも今は、」そう、彼女は同じADBのNZ人の優しい男と結婚して、幸せに暮らしてる。

もう1人はカザフスタン人の男。ソ連製の戦車に乗ったことがあるのもこの男。ソ連崩壊直前に徴兵訓練を受けたとのこと。しかしどうして留置場に?「いや、陸軍にいてその夜は何かの理由で外出禁止令が出ていたんだけど、どうしても外に飲みに行きたくなって。こそこそっと外に出ようとしたら捕まって、懲罰牢に入れられた。」ソ連陸軍の規律違反??? 良い度胸だ。。。よくADBで規律を守れるなあ。「いや、あの頃は若かったからね。何でも出来ると思っていた。」

こうして、我々チームはますます楽になった。特に、聖書をTV中継で朗読していたフィリピン人スタッフが、穏やかな笑顔で留置場の話を聞いていたのが、忘れられない。

2.毎日職場でエイゴ、エイゴ

(1)分かってくれよ俺の気持ち

意思疎通は、難しい。日本人同士でも時々難しいのに、他国籍の人と英語で分かり合うのは、時に、とてもとても難しい。

ADBでは予算査定も私の仕事の1つであり、ある日予算担当の部下たちと議論していた時、「頼むから受け身の査定官庁になるのではなく、予算要求部局に対してこっちから対案を出すくらいの気持ちでやってくれ。頭を豆腐のように柔らかくしてベストな案を考えてくれ!」と、言いたくなった。

しかし、日本で私をよく知る人間だけ辛うじて理解してくれるこの豆腐の表現を、フィリピン人、韓国人、ブータン人、NZ人の部下たちが分かってくれるだろうか?

やってみた。言ってみた。Soften your brains for creative ideas. We need brains as soft as TOFU. またも、一瞬の静寂が必要だった。今度は、私の表現を各自が頭(脳)の中でビジュアルに咀嚼するために必要な時間だった。

フィリピン人の予算課長(女性)が口を開いた。「なるほど。」彼女は息を吸った。そして柔らかに微笑みを戻して、言った。「そのTOFUレベルまで柔らかくするのはなかなか難しいですが、やってみましょう。」いやそこまで真面目に受け止めてくれなくても。

それ以降、部下の間で「TOFU BRAIN」というのが流行り言葉になった。私が「それはちょっと形式的な考え方ではないか」と言うと、「すみません。TOFUが足りませんでした」と丁寧に返すようになった。日本で今ふと思うと、豆腐よりもう少し崩れにくい物の方が良かったような気もしないでは無い。

写真:豆腐(TOFU)メンバー一同

(2)文法、グラマー、複数形の悪夢

国際機関だと、全てにおいて正確な文法のエイゴが求められる、と思っていた。ADBではエイゴ国民の部下の書いた文章に毎日手を入れ修正していたので、自分が書いた文の文法が間違っていたら、結構恥ずかしい。

くどいようだがまたTOFUである。実はTOFUの話をする時、文法の悩みにぶつかる。例えば3人の部下に向かって「貴方がたの脳を柔らかくしてください」と言う時に、「Soften your brains」とbrainを複数にするか、単数にするか。エイゴは単数複数に厳格な言語であり、間違えると結構訂正される。目の前にある脳味噌は3つであるから、複数のはず、である。しかし、3人の中の1人1人に語りかける気持ちであれば、各自の脳は1つである。(いや右脳と左脳がという面倒くさいことを言う人はもう読まなくて宜しい。)

脳味噌ならまだ良い。気の小さい当方としては、3人に向かって「Bring your wives to the party tonight」と言ったら、各自奥さんを2-3人ずつ連れて来いと言っているように思われないか、と詰まらない心配が始まったりする。

実はこれは、「配分単数・配分複数」という、エイゴ文法上かなり議論のある問題らしい。エイゴ国民ですら見解は必ずしも一致しない。最大公約数は以下のとおりである。1)基本的には上記の例だと複数にするのが正しい、2)しかし、状況に応じて単数にすることも許される。例えば、教室で「分かった人は手を上げて」と教師が言う時は、両手を上げられることを防ぐために「Raise your hand」と単数にするのは良い、3)但し、catch a coldのようにイディオムになっているものは、どんなに沢山の人が風邪を引いていてもcatch coldsにはならない。

どうも、もやもや感が残る。だから大学受験でも出ないのであろう。悩んだ割に、ADBでも指摘は受けなかった。

え? もっとエイゴの単数複数の奥深さに触れたい? 素晴らしい。数字編に行こう。1は単数。2は複数。では1.1mm(ミリメーター)は、単数だろうか複数だろうか? 0.7mmは? ミリメーター「ズ」になるか?

正解は、いずれも複数である。単数は「1つの単位」だけだからである。

1は単数、a halfも単数、a quarter、0.1mmも各々1つの単位なので単数。しかし、0.7は、0.1という単位が7つ集まっているので、複数である。1.1も、1という単位と0.1という単位の複合体なので、複数である。(注:但し見解には個人差あり。)

では、ゼロは? No applesなので、複数である。ゼロが複数?「1つの単位以外、全部複数」という説明が形式的には可能だが、ゼロは1よりも多いということになる。これは深い。哲学の世界である。綺麗な説明ができる人がいたら、お願いします。

こんなことをマニラで悩んでいたら楽になれない。フィリピン人とこんな話をしたことは無い。ただ、こういうことを知っていると、自分の引き出しが増えたようで何となく嬉しい。

エイゴは、むずかしいね。

3.最後の最後に、もっと楽になれた。

お互い楽になりつつ、頭を豆腐にしながらアジア的規律ある職場で過ごした日々も終わりが来ることになった。3年間の任期末に送別会をやってくれると言う。自分の局の会と、オールADBの会。いずれも、凝ったサプライズ溢れる会だった。

自分が所属していた局の会。入るといきなりお手製のJeepney(マニラを走る乗合ジープ)が置いてある。いや、よくぞここまで作ってくれた。。。そしてフィリピン人の10人以上のスタッフが寸劇と合唱を披露したかと思うと、人事担当二人が面接官と志願者に扮して「ある日の面接風景」をやる。志願者に扮した日本人男性スタッフが女性面接官に意地悪な質問をされ罵倒されるのが人柄そのままで素晴らしい。ADBの名誉にかかわるので文字に出来ないのが残念である。

写真:東京行きJeepneyと一緒に

写真:向かって私の右2人が面接官と志願者。Aprilもどこかにいます

更に、次は予算チームのフィリピン人女性歌姫による替え歌熱唱である。その時スクリーンに映し出された歌詞をご覧頂ければと思うが(ちなみにDGはDirector Generalで局長のこと、BPMSDは予算人事局のことである)、2つ目のパラにしっかり「TOFU」が出てくる。「A certain tofu way to each and every little thing」⇒「1つ1つの小さいこと全てに確かに豆腐」というシュールな表現は、豆腐マインド浸透の証であろう。いずれにしても、一語一語が、照れくさくなるほど味わい深い。

ADB全体の送別会の方では、司会者の某局の局長がいきなりパワポのスライドを出した。王冠をかぶった当方の写真の下に「the King of Reforms」と書いてある。この王冠は上記の自分の局の送別会でプレゼントされたものだが、それが迅速に称号まで付けてADB幹部の前に晒される。嬉しい。色々な人と一緒にやった人事と予算の改革の苦労をこんな形で最後に労ってくれた。自分の写真をお見せするのは決して趣味ではないが、今日だけはご勘弁頂きたい。

もちろん自分でも企画した。自分の3年間を振り返る「My Life at ADB」なるアニメ動画。ADBのフィリピン人IT担当者に無理にお願いして、「こうこうこういう内容のアニメ動画を作ってくれない?」と大雑把な手書きの絵コンテ(?)10枚くらいを渡したところ、2日後にミュージック入り(注)で出来上がってきた。年金改革とか定年延長とかの1つ1つの改革をキリンとかペンギンとかの可愛いキャラに書き込み柔らかに表現してくれている。素晴らしい。もちろん送別会でも大好評を博した。

(注)ボルテスV(ファイブ)という日本の1970年代後半のロボットアニメの主題歌。この番組は日本では人気が出なかったがフィリピンでは最高視聴率58%。主題歌はフィリピン人老若男女誰でも知っている。

この動画は宝である。餞別でもらった動画USBは、災害があった時に自宅から持ち出す災害携行袋に大事に入れてある。

一期一会と言うが、マニラでの、そしてADBでの3年間は、1つ1つの出会いがスライドになって私の頭に入っている。年を取ると人の名前は忘れるかもしれない。でも一瞬一瞬の映像は、生きている限り私の豆腐の中で輝きを失わない。

最後に、アニメ動画の中でスタッフが描いてくれた私のキング似顔絵をお見せする。

みんなのお蔭で楽になった私である。なんて和やかな顔に描いてくれたのだろう。ありがとう。

(次号に続く)