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大蔵省~財務省の庁舎こぼれ話あれこれ

大臣官房参事官 兼大臣官房会計課長 木村 秀美

明治初期の大蔵省の成り立ち

大蔵省の前身は、大政奉還直後の慶応3年(1867)12月、京都で朝廷内に設けられた金穀出納所である。

慶応4年(明治元年、1868)1月、三職分課の官制が定められ、会計事務課が置かれた。

同年2月には三職八局制が施行され、会計事務局が二条城内に設けられた。また、同年4月には「政体書」により、会計官となり内政関係の事務は、ほとんど会計官に集まった。

明治2年(1869)7月、「職員令」により、会計官を引継いだ形で大蔵省が設置された。

一方、同年4月に民部官(府県事務の所管庁)が設置され、会計官との管掌権限の調整が行われ、7月には大蔵省と併立する形で民部省が設置された。

同年8月には大蔵省、民部省が合併したが、大蔵省の権限増加に懸念する向きもあり、明治3年(1870)7月には両者が分離した。

明治4年(1871)7月、廃藩置県に伴い、再び民部省を廃止し大蔵省と合併した。

明治6年(1873)11月、内務省が設置され、大蔵省から地方行財政の組織などが内務省に移管した。

明治13年(1880)3月には大蔵省から監査部門が独立し、会計検査院が設置された。


明治初期の庁舎の変遷(京都~大手町へ)大手町の敷地内に平将門の首塚あり!

明治元年(1868)に会計官となった当初は京都の左大臣関白近衛忠煕邸内に本衙が設けられたが、明治2年(1869)3月には東京出張所(竜ノ口旧幕府評定所)を本衙とし、その後、同年4月には旧忍藩松平忠敬邸跡に移された。

同年7月に大蔵省が創設された当初の庁舎は、そのまま松平忠敬邸が使用された。上屋敷は江戸城の馬場先門にあり、現在の皇居前広場の一画(皇居前警備派出所付近)に当たる。

その後、明治3年(1870)に馬場先門内の皇城(皇居)内に移されたが、明治4年(1871)8月には神田橋門内の旧姫路藩酒井雅楽守忠邦邸跡に移転した。創設当初から移転を繰り返していたが、ようやくこの地に定着した。

当初は大名屋敷でそのまま執務していたが、明治10年(1877)に木造2階建の西洋館が建造された。当時、執務されていた方の記録によれば、「正門を入った左側に大きな瓢箪池があり、池の真ん中の丘の上に枝ぶりの良い立派な松、その松の下に平将門の首塚があった」とのこと。

また、瓢箪池は神田明神(元和2年(1616)に現在地へ遷座)の御手洗池であったと伝えられ、神田明神の祭礼日には、神輿が、大蔵省の敷地の中まで担ぎこまれるのが年中行事になっていたといわれている。

当該庁舎は、大正12年(1923)、関東大震災で焼失してしまったが、将門首塚は現存している。

写真:関東大震災前の大蔵省庁舎(大手町)
写真:大手町時代の大蔵省配置図


大正~昭和初期の庁舎の変遷(大手町仮設庁舎)関東大震災での庁舎の被害と応急復旧

大正12年(1923)9月1日土曜日の午前11時58分、関東地方を大地震が襲った。地震後開かれた政府の緊急会議では、地震後30時間経った2日午後6時、東京市と府下5郡に戒厳令が出された。

地震後まもなく発生した火災によって都心は三日三晩燃え続け、多くの官庁建物も甚大な被害を被った。地震直後、被災した省庁はそれぞれ仮事務所を設置したが、大蔵省は永田町の大蔵大臣官舎で事務を開始したとされている。

写真:大蔵省の焼け跡(大手町)

地震が発生してから1ヵ月後の10月1日、大蔵省に臨時営繕局が設置され、約1700万円の予算で被災庁舎の応急復旧に当たることとなった。執務場所は、当時建設中の議院敷地内にあった元枢密院の建物だけでは狭かったので、その傍らに天幕を張ったが、「雨が降ると製図版に、天竜下りの舟のようにしぶきがかかった」という。

まずは、焼け跡に残されたおびただしい瓦礫の撤去工事に取り組み、4カ月の日数を要し、大手町一帯の官庁建物だけでも約4万m3の瓦礫が越中島の大蔵用地に盛土として運び込まれた。

応急施設の整備に当たり、事務能率の増進を図るため、大手町地区に集中させる等の方針のもと、設計は昼夜兼行で行われ、設計図と仕様書の準備が整ったところで、施工業者を総動員して順次工事にとりかかった。

震災から半年後の大正13年(1924)2月までに、内務省、大蔵省、外務省、文部省、農商務省、逓信省、会計検査院、警視庁等のバラック(仮設)庁舎建築工事が終了した。

大蔵省の職員はバラック完成までの間、現代のBCPによるところの「代替庁舎」へ一時的な移転が行われることとなった。その移転先は丸の内の三菱本社ビル新館である。

写真:関東大震災復興後の大手町のバラック庁舎

三菱本社ビル新館は、地上6階建てで大正10年(1921)に竣工したばかりであった。その6階に大臣と次官、5階に主計局と主税局、4階に理財局と銀行局が配置された。

新館は丸の内で最初の汚水浄化装置を装備していた(それ以前の水洗トイレは単純なため込み方式)。大蔵省の職員はこうして新築まもない日本最高級オフィスでの暮らしをいっときだけ経験した後、バラック住まいに移行し、移行後は、不便な状況の下で仕事が続けられていた。

各省庁の仮設バラック庁舎は、その後、大蔵省の手によって、順次鉄筋コンクリート造等に建て替えられていくが、本家本元の大蔵省は、昭和15年(1940)に再び火災に遭うまで16年間もバラック住まいを続けることになる。

写真:大手町 諸官衙仮庁舎配置図(大正14年)

昭和初期の庁舎の変遷(大手町~霞が関へ)霞が関庁舎はロシア大使館等の跡地に

霞が関中央官衙のうち、大蔵省庁舎の建設は遅れたため、戦時体制下の影響を大きく受けることになる。

昭和9年(1934)、霞が関の現在地(当時、麹町区裏霞が関)に大蔵省本庁舎の建設が決定された。建設決定当時の敷地は、ロシア大使館並びにイタリア公使館の移転跡地に岩倉邸敷地の一部を合せた土地であった。ロシア大使館の土地は、維新の際は宮津藩本荘邸の敷地であったが、国に接収されたのち大使館に貸し付けられていたものである。

このように歴史のある土地であったことから、ロシア大使館を取り壊した時に、その床下から「清瀧水」と刻まれた風雅な石の井戸枠が出てきた。これは本荘邸の井戸に用いたものではないかと言われており、今でも中庭の北寄りに補修されて残されている。

写真:「清瀧水」の井戸

昭和10年(1935)から11年(1936)にかけて、庁舎の土台となる杭打ち工事を行った。

昭和11年には本体工事を発注し、13年度には完成予定であったが、工事の途中で日中戦争が起こり、臨時資金調整法と鉄鋼工作物築造許可規則の趣旨から工事が一時中止されることになった。

まだ鉄骨組立て中であり、雨ざらしで鉄材が腐食することを懸念し工事を進め、コンクリートが打ち上がった段階の昭和14年(1939)1月に工事打ち切りの措置が取られた。

しかしながら、当時大蔵省が大手町のバラックで長年に渡り不自由を忍んでいたことや、軍部から未完の庁舎を倉庫に使用したい旨の申し出があり、貸し付けた場合はそのままになるおそれもあったことから、昭和14年(1939)9月には工事が再開された。

新庁舎は、昭和15年(1940)6月8日に仮竣工したが、天井、壁、廊下はコンクリートの素地のままで埃がひどく、電気工事も不完全でエレベーターもなく会議室も整わない有様であった。

新庁舎が仮竣工して間もない同年6月20日の夜、大手町の逓信省航空局新館の煙突に雷が落ち火災を生じ、火災は大蔵省のバラック庁舎にも及び、すべて灰儘に帰してしまった。

この時は「代替庁舎」として、蔵相官邸(大臣官房)、議事堂(主計局)、糖業会館(主税局)、東京銀行クラブ(銀行局)、勧銀本店(預金部資金局、国民貯蓄奨励局)、正金銀行(為替局)等が使用された。

しかし、2日後の同年6月22日には営繕管財局が新庁舎に乗込み、内装工事を突貫で行っている最中の7月6日に、分散執務を行っていた職員も全て新庁舎に集結し、引越しを完了させた。

その後も内装工事は続けられ、資材難、物価騰貴により、外壁タイル貼りが中止されたほか、建物の修飾部分が省かれるなど設計変更を余儀なくされた結果、完成したのは昭和18年(1943)7月であった。

戦中から戦後の庁舎の変遷(霞が関~四谷へ)屋上耐弾層の設置とGHQの接収

太平洋戦争に突入以後は、政府は空襲時における中央官衙の機能を維持する方針のもとに防空対策をたて、既存の鉄骨鉄筋コンクリート造の庁舎に対しては、耐弾層などを付置することとされ、大蔵省においても爆弾の直撃に備え、屋根増強工事を行い、昭和17年(1942)に屋上全面に厚さ45cm程度の耐弾層を設置した。

昭和20年(1945)に敗戦を迎え、戦火をまぬがれた建物は、駐留軍の事務所、宿舎、兵舎などのために接収されたが、大蔵省本庁舎も例外ではなく、約10年余の間、GHQに接収されることとなった。ミズーリ号艦上での調印から旬日を経ない9月11日「72時間以内に現状を少しも変更せず明け渡せ」との命令があったという。

戦地から復員してきたある先輩が登庁したその日、5階の窓からも書類などを投下し、引越しの真最中でテンヤワンヤの末、この時もまた、「代替庁舎」の勧銀、東京証券取引所など都内数か所に分散避難したという。

当時、GHQが作成した大蔵省本庁舎の平面図によると、1階と2階には主として事務室や諸設備があり、3階以上は兵舎になっている。4階講堂は教会として使われ、地階受付の辺りにはボーリング場が設けられ、その南隣にはビヤホールがあった。1階会計課経理契約の辺りにはスナックバーがあり、3階の食堂はやはり食堂として使っていたが、講堂の下あたりはクラブで、ステージもあり、ダンス遊技場として使われていた。

写真:庁舎内にあったボーリング場(資料提供:米国立公文書館所蔵 佐藤洋一提供)
写真:大蔵省中庭(衛兵のブラスバンド)(資料提供:米国立公文書館所蔵 佐藤洋一提供)

かくして分散して執務していたが、極めて不便であり、一日も早く一堂に会して執務できる建物を散々苦労して探した結果、米軍が野戦病院に使用していたが急に他に転ずることとなり使わなくなっていた四谷第三小学校を、都の教育局と交渉し、昭和20年(1945)の年も暮れる頃、ようやく仮住まいとして借り受ける目途がついた。

それから急いで小学校の中を大世帯の大蔵省の庁舎向きに手を入れる改修がなされた。屋上に1階分のバラックの庁舎と、小学校の北東側の道路を隔てた民有地を買収して、木造2階建て4棟、さらに小学校の北西側に2棟が建て増しされて、ようやく、昭和21年(1946)4月20日に引っ越すことになった。

昭和31年(1956)3月に霞が関庁舎へ戻るまでの約10年間の四谷時代は、戦後日本の最も苦難な時代でもあった。

写真:四谷時代の大蔵省庁舎

その間、昭和22年(1947)9月12日夜、急造の木造2階建ての庁舎から火が出て三度目の火災を起こしたことがある。大火には至らなかったが、本館屋上のバラック庁舎などが燃え、未復員の職員の給与台帳などの書類を焼失してしまったとのことである。

当時は女性職員が防空服をまだ持っていて、それを被って出てきた人も随分いた。書類は男性職員が持ち出し、女性職員は電話の線を切って電話機だけを抱えて逃げたり、2人がかりで和文タイプや輪転謄写機など、得難い機械を持ち出したという話がある。

昭和中期の庁舎の変遷(四谷~霞が関へ)GHQの接収解除、返還

昭和30年(1955)12月、GHQによる接収が解除され、霞が関庁舎が大蔵省の手に戻ってきた。

返還式が挙行され、在日米軍のカバーデル准将から大蔵省の平田事務次官に鍵をかたどった木製の標識が受け渡された。

写真:返還式(平田事務次官とカバーデル准将)

昭和31年(1956)1月から3月末にかけて、GHQが使用していた兵舎、売店、大浴場等を事務室等に復元する突貫工事が行われ、工事が完了した同年3月31日に四谷庁舎から霞が関庁舎への引越しが行われた。

大蔵省の引越しと合わせて、同年3月23日に内幸町の東拓ビルから庁舎の5階に国税庁の引越しが行われている。

大蔵省が霞が関庁舎に復帰した際には、外務省庁舎の建て替えに伴い、北側の1階から4階には外務省が入り、昭和35年(1960)まで同居することとなった。

昭和35年6月、外務省が新庁舎に移転した後に、今度は経済企画庁、内閣法制局、憲法調査会が入り、内閣法制局は昭和37年(1962)11月まで、憲法調査会は昭和39年(1964)9月まで同居していた。

その後、経済企画庁が新築された中央合同庁舎第4号館に移転した昭和46年(1971)10月以降、本庁舎は専ら大蔵省(現・財務省)と国税庁の庁舎として使用されている。

GHQの接収解除後も工事は継続して行われており、昭和36年(1961)には、戦後は無用の長物となった耐弾層を撤去し、屋上の整備を行った。

外壁が現在のタイル張りの装いをしたのは、昭和37年(1962)から38年(1963)であり、竣工後20年余りの歳月をコンクリートの素肌のままで通したことになる。

それまでは、本庁舎の外壁はコンクリートの打ちっぱなしで、ところどころ鉄筋が露出し、城郭を思わせる地階の石張りや石造りのアーチの門との対照が印象的だったという。

写真:コンクリートの素肌のままの本庁舎(昭和34年頃)

太平洋戦争の戦時体制から終戦を迎え、その後、昭和30年(1955)までのGHQによる接収期間を経た後、当時の大蔵省と建設省との度重なる打ち合わせ・検討の結果、約250万枚(レンガ小口のタイル換算)のタイルが、その頃の最善の工法により張られている。

昭和39年(1964)5月には、庁舎の前庭に手が加えられ、都立園芸高校の早川忠治氏の設計により植込みの手直しと石、砂を適度にあしらって、花なども供え、当時としては近隣にちょっと比類のない垢抜けした枯山水風の庭園が造られた。

この年は、わが国がIMF八条国に移行し、9月にはIMF東京総会が開かれ、10月には東京オリンピックが開催された年であり、戦後の日本が、国際社会に名実共に復帰した記念すべき年でもあった。

昭和53年(1978)には事務室の狭隘を解消するため、庁舎西側の4階及び5階部分に鉄骨造の事務室が増築され、現在の財務省本庁舎の形となった。

写真:外壁タイル及び造園整備後の庁舎(昭和44年頃)

さいごに

財務省(大蔵省)は、明治、大正時代は庁舎を転々としながら過ごし、未曾有の震災を大手町で経験した後、霞が関に腰を落ち着けてからは戦火を乗り越え、GHQ接収中の四谷時代という苦難の時も経て、昭和、平成、そして令和といくつもの時代を駆け抜け、現在に至っている。

現庁舎は、昭和9年(1934)着工、昭和18年(1943)竣工であり、令和2年(2020)1月には、耐震改修を終え、前庭も化粧直しして、本号発刊後の同年7月には、心新たに喜寿(77歳)を迎えることとなる。

現役職員の誰よりも先輩であるこの建物の長寿を願い、見守り見守られながら、共に令和の時代を元気に歩んで行きたい。

年表:財務省庁舎の変遷

引用文献

・「霞ヶ関100年」平成7年 建設省監修
・「大蔵省庁舎ものがたり」篠原忠良著
・「大蔵省本庁舎50年の歩み」大蔵省大臣官房会計課編