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職員トップセミナー(王 貞治 氏、令和2年1月16日開催)

講師 王 貞治 氏(福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役会長)

演題「野球が教えてくれたもの」

 

1.はじめに

御紹介いただきました王です。

今年はオリンピックの年ということで、スポーツ界は大変盛り上がっています。

1964年の東京オリンピックの時には、長嶋茂雄さんと一緒に「ON五輪をゆく」という報知新聞の企画で、大会期間中ずっと、バレーボール、陸上競技、水泳の会場などで一ファンとして観戦させていただきました。とにかく想像を絶する観客の数と熱気に圧倒され、世界には上のレベルの人たちがいるなという思いを強くいたしました。とにかく日本の選手とはタイムが違う、距離が違うのです。

前回の東京オリンピックは、日本が羽ばたくための良い機会だったのではないかと思っています。前回のオリンピックの年は、私が本塁打55本という日本記録を達成した年でした。オリンピックで日本が盛り上がった時にこうした記録を達成できたのは、皆さんから背中を押してもらって大きなパワーを出すことができたからだなと感じています。

日本が今後飛躍するためにも、是非今年のオリンピックも成功してほしいと思っています。

さて、近代オリンピックの父であるクーベルタン男爵が「スポーツは参加することに意義がある」と言ったように、かつては勝負や結果についてあまり考えない戦いが行われてきました。日米野球も、親善野球という形で、米国の選手は奥さんを連れ、ゴルフバッグを持って観光気分でやってきたのです。それでも日本は勝てなかったのです。

しかし、今では、野球の国際大会「第2回プレミア12」でも日本が優勝し、また、日本の選手が米国に行って活躍するようにもなりました。特に投手の方は米国でもかなり良い仕事をしており、「日本の投手なら何人でも採るよ」という声が掛かります。残念ながら、打者の方はなかなかそこまでの活躍をすることができていないので、大谷翔平選手には大いに期待したいと思います。

日本の野球界もかなりレベルが上がりましたし、野球の進め方もだいぶ緻密になってきましたので、そういった意味では、我々がやってきた50年前、60年前の野球とはかなり違うということになります。

おそらく戦前の野球も、我々がやっていた頃の野球と比べると、そのレベルには達していなかったのではないかと思うのです。このように、時を経ることによって、レベルは上がっていくのです。

野球だけでなく、今の日本のスポーツ界はレベルが大変上がりました。

例えば、陸上競技の100メートル走では、これまではどうしても10秒を切れなかった時代が続きました。しかし、今では日本でも9秒台で走る人も出てきました。

また、70年ほど前には、水泳で古橋広之進さんと橋爪四郎さんが全米選手権に招待され、1,500メートル自由形で1位、2位になりました。このときのタイムは18分19秒でした。しかし、今なら15分を切るでしょう。

日本人の体格も大きくなってきていますし、トレーニング方法も素晴らしいものになっていますので、スポーツの世界でもほかの国の選手と互角に勝負できるようになっているのではないかと思います。

2.高校からプロ野球へ

私は22年間プレーしたのですが、最初の3年間ぐらいは成績も平凡で「王は王でも三振王」と言われ、随分と冷やかされました。

私は高卒でプロの世界に入りました。今もそうなのですが、高校からプロ野球に入った人たちは、体力的に見て、まだ大人になる過程の肉体なのです。高校レベルの野球に対しては自分なりの活躍ができますが、プロに入ると、体力的には大人と子供ぐらいの体の違いがあります。

また、先にボールを投げる投手であれば、先手となりますので、良いところに投げることができれば、18歳でもそれなりの仕事ができます。しかし、打者というのは経験を積むことが必要です。投手のものすごく速い球、重い球、変化球の曲がりの大きさや鋭さ、こういういったものには経験なしではなかなか対応できません。ですから、打者の場合、高校を出てすぐに活躍できる状況にはないのです。

話は変わりますが、高卒でプロの世界に入った自分の中で不満があるとしたら、大学に行かなかったことです。もし大学に行っていたら、あのような成績もホームラン記録も出せなかったかもしれません。

しかし、大学に行くことで、日本全国から集まってきた仲間と幅広い交友関係を築くことができたのではないかと思います。

また、私は高校からいきなりプロ野球の世界に入ったので、何事も「仕事」ということでやることになりました。大学生活を通じて「いろいろな失敗をしてもいいんだ」などと、様々なことを学ぶ時間がなかったのは残念に思います。

次に生まれ変わっても野球選手にはなりたい。しかし、大学だけは行きたいと思います。

3.プロとしての考えを持った長嶋茂雄さん

ただ、私にとって幸運だったのは、長嶋茂雄さんと一緒に野球ができたことです。長嶋さんは本当に図抜けた存在でした。野球の技術はもちろん、俊敏さでも大変素晴らしかった。それに加えて、プロとしての考えを持っていました。「自分がこういうふうにすると、お客さんが喜んでくれるだろう」というところまで考えてプレーしていました。私は相手が投げる球を一生懸命に打つだけで、そんなことを考える余裕もありません。

長嶋さんはいわゆるプロとしての考えを持って野球に取り組み、お客さんの胸の中に飛び込むプレーをたくさんして、お客さんをどんどんグラウンドに呼び込みました。またメディアもそういう人物を求めていました。

今では、長嶋さんや中畑清君のように、自分をどういう形でアピールするかというところまで考えてプレーする人たちがだんだん増えてきています。身近なところでは、福岡ソフトバンクホークスの松田宣浩選手です。彼らは自分の調子の良し悪しに関係なく、ファンにアピールすることをものすごく考えています。ですから、チームメイトをとても力付けます。

自分の調子が悪い時に元気を出すのは勇気が要ることだと思います。私は苦手でしたが、こういうことをできる選手が各チームに一人ぐらいはいます。私は、野球界のために頑張っているこうした選手たちに感謝しています。

4.荒川博さんとの出会い

私が野球人生を振り返るときは、荒川博さんを忘れるわけにはいきません。私はそれなりにボールを遠くに飛ばすことはできましたし、春の甲子園大会で優勝するなど、野球の環境にも恵まれました。そうした中で読売巨人軍に入りましたので、野球人の中でも恵まれた歩み方をすることができたと思います。しかし、「三振王」と言われていたころの成績は平凡でした。

その頃、高校の先輩でもある荒川博さんがコーチとして巨人に入団されたのです。広岡達朗さんが1年先輩の荒川さんを呼んだのだと思います。

荒川さんとの出会いは私にとって素晴らしいことだったのですが、本当に地獄の時を過ごすことになりました。

それまでも自分なりには練習をしていたつもりでした。しかし、荒川さんの指導の下、とにかく朝から晩まで練習することになりました。「ホームランを打ちたいんだろう!三冠王を取りたいんだろう!」と荒川さんは言います。私からしたら全然考えてもいないことを荒川さんは声に出して、「そのためにはこれが必要なんだ」と言われ、必死に練習しました。最初は全く分からない状態で、ただただ言われるとおりにやっていました。そして、少しずつは打てるようになってきたのですが、やはり平凡な成績だったのです。

荒川さんは「おまえはホームラン王になるんだ!三冠王になるんだ!」と言い続け、私の頭になかったことを目標に掲げてくださいました。それに従い、私も練習し続けました。

練習で手が切れて血が出ました。足の裏からも血が出ます。しかし、こうした傷は治るのです。また、その練習の苦しさも忘れられるのです。ところが振ったバットの数、また、そのことで強くなる筋力、こうしたものは残るのです。だから練習をしないと打てるようにはならない。これは絶対にそうだと言えます。練習をしたからといって、打てるとは限りません。しかし、やらないと絶対にレベルは上がっていかないのです。それを荒川さんに教えられました。

荒川さんの指導を受けた最初の頃は結果が出なかったので、「なぜこんな練習をしなければいけないのか」と考えたこともありました。

しかし、だんだん打球が速くなり、打球の飛ぶ距離も増していきました。結果的に打率も良くなり、ホームランも増えていく。そうなってくると、「やはり練習はやらなければいけない」という気持ちが自分の中で生まれるのです。

そうなってくるとしめたもので、「苦しい練習を乗り越えれば良い結果が出る」ということを実感することができます。しかし、ほとんどの人がそれを感じないまま、野球人生を終えるのです。私は恵まれていて、まだ22、23歳の頃にそういう環境に置かれて体験することができました。そのことで練習は当たり前のことだと思い込むことができたのです。

荒川さんと出会ってから18年間、本当に毎日のようにバットを振り続けました。当時プロ野球界にいた人の中では、私が一番バットを振ったと自負しています。それぐらい練習することでプロ野球選手としての目覚めを味わったのです。

そうなると、もっと、もっと、という気持ちが生じてきます。私はホームランを打った日でも決して余韻を楽しんだことはありません。寝床では、次に当たる投手がどういう攻め方をしてくるのかが気になるのです。今の時代のようにビデオはありません。しかし、「王が今日ホームランを打った」ということだけは相手に伝わります。例えば、翌日の試合が阪神の江夏豊投手との対戦であれば、江夏投手はこういうふうに攻めてくるだろう、前回の対戦ではこうだったから、こう攻めてくるだろうと布団の中で野球が始まるのです。それがまた楽しいのです。いつの間にか時間が経って、「よし、次は絶対にこうやろう」ということが自分の中で固まります。グラウンドに出る時も足が軽くて、「よし、今日も打つぞ」と思って試合に臨んだものです。

ホームラン王になった後、学校の同窓会に参加したことがありましたが、以前とは扱いが違うのです。それまでは「おまえしっかり打てよ」と言われていたのが、「よかったな!」と肩を叩いて喜んでくれるのです。そばに寄って来なかった女の子もどんどん寄ってきてくれるのです。

打つとみんなが喜んでくれるので練習にも身が入りました。この味を味わうまでが勝負だと私は思うのです。「よし、こうだ」と実感した人は強いと思います。

5.選手に“気付き”を与える喜び

我々の世界でコーチは「気付かせ屋」だと言われます。選手にどういう方向に向かうのかをアドバイスして気付かせてあげるのがコーチの仕事なのです。気付いた選手にはもう何も言わなくていいのです。

選手それぞれの顔が違うように、それぞれの素質も違います。コーチも気付かせるのが仕事だと思うと、「Aという選手にはこう言おう、Bという選手にはこうだ」といろいろ勉強するのです。コーチ自身が選手時代どうだったのかはあまり考える必要はありません。

選手に対してどういうアドバイスができるかということを考えると、コーチという仕事も楽しいのです。選手のようには注目されませんが、アドバイスをした選手が良い結果を出してくれると、こんなに嬉しいことはありません。自分が打った時の喜びとは別の喜びですね。

また、コーチは朝から晩まで仕事しても選手のように給料は上がっていきません。しかし、ホームランを打たせることができれば、自分のやり方が正しかったということを密かに思い、そして、次の選手にももっといい形で教えたいと思うのです。

プロの世界では、素質のある選手ばかりが入ってきています。ほかのチームにも良い選手が入ってきていますので、結果を出すことはなかなか難しいのです。しかし、そこを少しずつ前に進んでいくことで、ものすごく意欲が出ます。私は、教える立場になった時に、選手に気付かせる、目覚めさせるという喜びを感じました。

私は、自分の言葉には気を付けています。私の場合、現役時代の実績というものが付いて回りますので、私が発言すると、コーチが重く受け止めてしまうことがあります。私が言ったことを大げさに取られてしまうといけないので、どうしても言葉が控え目になります。

選手に対しても同じで、考えさせることが目的ですから、言葉には一番気を遣っています。特に、この選手には何が必要なのかという見極めとそれに対する言い方です。

選手の欠点を直すのは大変難しいのです。そのため、欠点を直すのではなく、良いところを見つけて伸ばしてあげることがアドバイスのコツだと思います。

6.やり過ぎを恐れるな

プロの世界である程度やっていると、スランプは当然あります。

このほかに、やり過ぎというのもあるのです。練習のやり過ぎとか考え過ぎなどです。それは絶対に必要なことです。考え過ぎない人、練習をし過ぎない人は絶対に伸びない。やり過ぎて失敗する、考えすぎて失敗するというのは大いにあってしかるべきだと思います。やはり前に出ないと次のステップにはいかないのです。

昔、「限界に挑戦」という言葉がありましたが、今では、手や足をすり減らすようなスパルタは少し聞こえなくなってきました。

私は、大人が斟酌して、若者の才能に傷が付かないように迂回させるのはあまり良くないと思います。誰でも通らなければならない道は通るべきなのです。やってみて、やれた、という経験がないと次のステップに上がっていかないと思うのです。

チャレンジして乗り越えられた人は、乗り越えられた人なりに頑張れると思いますし、失敗したら失敗したで、自分で考え、違う道で頑張っていくことができるのです。

私は「七転び八起き」という言葉が好きです。転ばないと前に進めないのです。そういう点では私はこれまであまり失敗をしてきませんでした。戦争が終わった時は5歳でしたが、自分の家が中華そば屋だったので、食べることに不自由したことがないのです。私と同じような年齢で食べることに苦労しなかった人はほとんどいなかったでしょう。そういった意味では辛い思いもしていません。私は苦労が足りなかったのかなと思います。もう少し苦労していれば、もっと伸びたのかもしれません。

7.目標を持つことの大事さ

私は4番打者を長く務めました。4番打者というのは、自分が打たねばならないという責任が出てきます。打たないとどうしても敗戦責任者のようになってしまうのです。2、3、5番の各打者とは異なり、4番打者は孤独なのです。

しかし、4番打者はほかの人には味わえない部分を味わえます。また、自分の目標についても、高くて難しいところに焦点を向けられます。

そこで、私は3試合に1本ホームランを打つことをノルマにしました。当時は年間130試合ありましたので、43本ホームランを打てばその年はノルマを果たし、満足のいくシーズンということになります。しかし、43本打てない時は、たとえホームラン王になったとしても満足できないと考え、常に3試合で1本はホームランを打つことを自らに課したのです。

しかし、コンスタントに打てるわけではありません。7、8試合ホームランが出ないこともありますし、1試合で何本も打つ時もあります。均してだいたい3試合で1本ということになります。

私はホームラン43本という目標を自分で設定し、それに向かって突き進みました。そして、いつの間にかホームラン数を43本前後にもっていくことができたのです。

このように、自分なりの目標やノルマをしっかり持って、それに突き進むことが大事だと思います。

私は気持ちも大事だと思います。技術は身に付けることができますが、それを引き出すことができるかどうかは気持ち次第なのです。

また、アマチュアで勝っても負けてもいい、というのと、仕事で勝ち負けの責任を問われるのとは大違いです。そのため、仕事第一で考え、そのためにどうしたらいいのかを考えれば考えるほど、道が開けてくるのではないかと思います。私は、ノルマを自分なりに作って、それに向かって、どうしたらいいだろうかと常に考えてきました。そのことが結果的にホームラン数の増加に繋がっていったのではないかと思っています。

8.ライバルの設定

次にライバルについて申し上げます。

我々がプレーした時代には、野村克也さんとか、今もテレビで活躍している張本勲さんなどがいました。彼らはすごい成績を出していました。私も「あいつには負けたくない」という思いで頑張りました。自分にそういったものを設定することは大事なことだと思います。

私は長嶋さんをライバルだとは思いませんでしたが、ライバルというのは自分で想定すればいいのです。「今日の対戦相手の4番打者に負けたくない」などでもいいのです。何かやるのに自分を奮い立たせてくれるものを自分で作ることも大事なことだと思って私はプレーしていました。

9.支えてくれた家族や友人の大切さ

それから、自分を支えてくれたのはやはり家族です。一番心配してくれるのです。自分では「今日、こういう理由で打てなかった」というのが分かるのですが、家族はそれが分からない。ただ私の周りでオロオロというか、腫れものに触るようなことしかできないのです。そういったこともあり、家族や両親に対しては、彼らのためにも頑張らないといけない、という思いが自分の原動力になりました。

それから友達についてです。耳が痛いことも言ってくれる友達というのはありがたいですね。中学時代からの友達などは何でも言ってくれます。今でも大事にしています。お互いに思ったことはどんどん言い合うのです。私が慢心しないで野球に取り組むことができたのも良い友達がたくさんいたからだと私は思っています。

人間一人では何もできません。友達がいたり、家族がいたりすればこそなのです。

また、話は変わりますが、私は野球一筋で、遠征も多く普段は家にいないため、子供の教育は妻に任せていました。しかし、父親になるというのは、ただ結婚して子供ができたから自然と父親になるものではないということに気が付きました。

父親には責任があります。父親はどうすべきか、ということも考えさせられました。ただ稼げばよいのではなくて、父親として教えるべきこと、父親だからやれることについて、先輩から気付かされました。

では、我が家の場合どうしようかと考えました。我が家の子供は女の子が3人です。女の子のことはよく分からない点もありましたが、「娘たちにはあまり贅沢ないい思いをさせないようにしよう」と決めました。

妻とは特にこういった話はよくしました。私は野球選手の中では良い給料をもらっていましたから、贅沢をさせようと思えばそうできたのです。しかし、それはのちのち彼女たちに良くないだろうと思い、しつけの一環としてどうすべきかを考え、贅沢はさせませんでした。

10.健康とチャレンジ精神

私は今年80歳になります。胃の手術を行いましたが、幸い良い形で生きてくることができました。私はまだ自分の足で歩くことができます。できることなら最後まで自分の足で歩きたいと思い、エレベーターやエスカレーターがあってもなるべく歩くようにしています。

歩くことに限らず、仕事でもずっとチャレンジ精神でやってきましたけれども、やった人とやらない人の差は絶対出てくると思います。体は正直ですから、歩く、あるいは階段を2段まとめて登るとか、そういうことをやると、やったとおりに体は動くようになってくれるのです。

皆さんの中には健康について意識する年代になった方もいると思います。何かを自分に課す、何かを乗り越えていく、こういうことは年齢に関係なくずっと続けていってほしいなと思います。

11.野球そのものにハングリーであれ

それから、皆さんの仕事とも一番縁があるお金についてです。

私は、若い頃はお金のことなど考えずに野球をやっていました。今の野球選手は年俸5億円とか6億円とか、1年で一軒家が建つほどの給料をもらうようになりましたが、我々が現役の頃は、引退までに都内に一軒家が建てられたらいいという時代でした。

当時は、球団も財布の紐が大変厳しく、また、メディアも選手の味方ではなく球団の味方でした。選手が契約しなかったりすると、次の日の新聞には「あの選手は良い条件だったのに契約しなかった」などと書かれたものでした。今の選手はそういう点では羨ましいですね。今は全てのメディアが味方で、最近では弁護士もついています。そういった点では、球団で契約交渉に当たる人たちは大変だろうと思います。

私は、今の選手には、お金に対するハングリー精神は横に置いてほしいと思っています。お金に対するハングリーさには限界があります。ある程度お金をもらうと、それまでにあった前に進む気持ちが萎える面もあると思うのです。だからこそ、私は選手たちに「野球そのものにハングリーであれ」といつも言っています。

私の場合は、「打つことにハングリーであれ」ということになります。現役だったとき、ノートに書いていたのは「こうしたらもっと打てるようになるのではないか」「しっかりボールを見ろ」「足を使って打て」など、いつも同じ、堂々巡りでした。目先の結果を求めるあまり、ついつい以前書いたことを忘れてしまうのです。後で読み返してみると「また同じことを書いているな」となるのです。しかし、それぐらい必死でやっているのです。

12.人生を円の形で考える

私は、人間というものは円を描きながら生きているものだと考えています。春夏秋冬と季節も移っていきますし、1年で考えても1月から12月へと時が進んでいきます。

成績が良い時、私たちは時が止まってほしいと思うのです。調子が良いと思っていたのに、2、3日すると調子の良い状態がどこかに行ってしまうのです。

ですから、私は「調子が良い時も悪い時もそこで止まることはない」といつも思うようにしています。選手たちにもそういう話をしています。調子が悪くてもあまりがっかりすることもないのです。いずれ調子が良い時が巡ってくるのです。

このように円の形で考えることで、思い悩むことが少なくなりました。以前だったら、「ここまでダメならもう上には行けないのではないか」と思いましたが、今では「巡り合わせが悪いだけだから待ってみよう」と自分を追い詰めることはなくなりました。

私は、もう一段高いところで悩みたい、常に次のステップへ進みたい、という思いでやってきました。プロというのは決して楽しい人生ではありません。しかし、私はこういった考えのもと、やりがいのある野球人生を送ることができ、大変良かったと思っています。

13.おわりに

最後になりますが、今は少子化もあって、子供の野球人口が減っています。ですから、何とか子供たちに野球をする経験を積ませてあげたい、そうした運動をもっと広げていきたいと考えています。特に今年はオリンピックが開催されるということでスポーツの機運が盛り上がりますので、今が一番良いチャンスではないかと思います。

また、今年は福岡ソフトバンクホークスの日本シリーズ4連覇を目指して頑張りたいと思います。そして、巨人と是非もう一回日本シリーズで対戦したいと思います。ホークスが巨人に4連勝した昨年のようにはいかないでしょう。本当の意味での勝負は今年だと思います。

ご清聴ありがとうございました。

講師略歴

王 貞治(おう さだはる)

福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役会長

1940年、東京生まれ。一本足打法により、読売巨人軍で活躍。13年連続本塁打王、2年連続三冠王を経て、1977年には本塁打世界記録を達成。通算安打2786本、打率3割1厘、本塁打868本。引退後、巨人・ホークス(ダイエー・ソフトバンク)監督。2009年1月、福岡ソフトバンクホークス取締役会長(現職)。

1977年、日本初となる国民栄誉賞を受賞。2010年、文化功労者。