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新々私の週末料理日記その34

11月△日土曜日

先の入院中に悪友が「人生で大切なことは泥酔に学んだ」(栗下直也著、左右社)という本を差し入れてくれた。見舞いに来てくれた人から、「酒が飲めない状況なのにその本を読むのはつらくないですか」とたずねられたが、さにあらず。たしかに入院していると、ビールをあおる夢を見たり、小料理屋のカウンターで美人女将に酌してもらう場面を妄想することはあるが、本書に出てくる呑兵衛たちのような飲み方はさすがに遠慮したくなるので、問題ない。

本書によれば、プロレスラーの力道山は、興行成功の祝い酒を朝から自宅で呑み、夕方から料理屋で呑み、さらに赤坂のナイトクラブで呑んだ挙句、やくざに因縁をつけて叩きのめしたが、その際にナイフで腹を刺され、これがもとで死んだ。詩人の中原中也は、酒乱で周囲に絡み、「殺すぞ」と言って評論家の中村光夫の頭をビール壜で殴った。「檸檬」で知られる梶井基次郎は、酒癖悪く、料理屋の床の間の懸物に唾を吐きかけて回り、杯洗で男の大事なものを洗って見せ、限りない狂態を尽くした。評論家の河上徹太郎は、70歳にして、当時警察が泥酔者保護のために設けていたトラ箱に留置され、2か月後に文化功労者を受賞した。同じく酒乱の評論家小林秀雄は、戦後すぐに、呑みかけの一升瓶を抱えたまま水道橋駅のホームから10m転落したが無傷で、駅で一晩寝かせてもらい、「実に気分爽快だった」とうそぶいている。小林には、しこたま呑んで自宅のある鎌倉に帰ったが呑み足らず、路地裏の待合に入るつもりで見ず知らずの他人の家に入り込んで酒を出せと騒いで、暴言を吐いたという逸話もある。プロ野球選手で、大酒飲みの強打者であったことから酒力打者と呼ばれ、「あぶさん」のモデルになった永淵洋三は、試合中に二日酔いで右翼の守備位置で吐いてしまったが、本書の登場人物の中ではまともな方だろう。

囲碁の藤沢秀行九段は、37歳で第1期名人位を獲り、57歳で棋聖戦六連覇を成し遂げ、66歳で5度目の王座位を獲得して翌年も連覇した偉大な棋士であるが、アル中ながらも仕事で成果を出し続けた男として本書に登場する。30代の頃は一晩でウィスキー2~3本空け、40代でアル中になったが、賞金の高い棋聖戦前にはホテル監禁状態で酒を抜き、対局に臨んだという。著書「野垂れ死に」(新潮選書)の中で、「二時間も飲まないでいると全身が痙攣し、満足に碁石も持てない。それで棋聖戦の数ヶ月前になると地獄の苦しみで酒を断ち、きれいな体になってタイトル戦に臨み、防衛を果たすや否や、何も食わずに狂ったように酒を飲み続ける、ということを繰り返していた」と告白している。

その私生活の滅茶苦茶ぶりは、酒、ギャンブル、借金、暴力、女性問題のいずれも何ともすさまじい。酒が入れば誰彼かまわず低能呼ばわりし、訪中して鄧小平と会見した際にも泥酔状態で、「(女性器の俗称は)中国語で何というんだ」と絡んだという。競輪・競馬に入れあげて借金は一時3億円を超え、3人の女性との間に7人の子がいた。50代で胃ガン、60代でリンパ腫、70代で前立腺ガンを患うが、アル中の平均寿命の52歳をはるかに超える83歳で天寿を全うした。リンパ腫の放射線治療の後遺症でひどい口内炎になり、以後痛くて酒が呑めなくなったのがよかったのかもしれない。

その藤沢と仲が良かったのが、同じく呑む打つ買うの三拍子派の将棋の芹沢博文九段である。前掲「野垂れ死に」によれば、藤沢の11歳年下の芹沢は自身50歳の時に、二人の余命を「シュウコウ3年、オレ5年」と予言したが、翌年肝不全で亡くなった。晩年の芹沢は、朝からシャブリを何本も飲み続けて、その死は「緩やかな自殺」といわれた。

芹沢は、小学校6年生の時に沼津の将棋会で木村義雄名人に二枚落ちで勝ち、「沼津に天才少年あらわる」と騒がれた。中学2年で上京して高柳八段に弟子入りし、19歳で四段になった。棋士のランクを決める順位戦で4年連続昇級して昭和36年24歳でA級入りして八段になり、「天才芹沢」の名をほしいままにした。阿佐田哲也の筆名で「麻雀放浪記」を書いた作家の色川武大によれば、当時、弟弟子の中原誠(のち16世名人)やかわいがっていた米長邦雄(佐瀬勇次名誉九段門下、のち永世棋聖)と呑むときの勘定はすべて芹沢持ちで、芹沢が名人になったらそれまでの勘定の総和の倍を支払えという賭けをしていたという(「男の花道」、新潮文庫「棋士という人生」収録)。

しかし自他ともに認める名人候補ながら芹沢は、(A級を勝ち抜いて)名人への挑戦権を得ることができないまま、A級在位わずか2年でB級1組に落ちた。その後長く、激戦のB級1組を維持したが、再びA級に戻ることはできなかった。自身を天才と信じていた芹沢は、「その気になればいつでも勝てると思っていたから、その気にならず負ける癖がついてしまった」と言っていたという。(小心翼々と生きるサラリーマンとしては、一度こういうセリフを言ってみたいものだ。)

将棋では無冠のままであったが、「天才芹沢」はマルチな分野で天才ぶりを発揮し、タレント、文章家としても活躍した。しかし、名人への望みを断たれてからも名人位への思いは強く、「名人になるには天から選ばれなければならない。俺は好かれもしなければ、選ばれもしなかった」と言っていたという。

昭和44年、芹沢と中原の対戦で勝った方がA級に上がれるという順位戦があった。芹沢は終始優勢に進めながら終盤逆転された。師匠の高柳によれば、この一番で芹澤には「俺は名人になれないんだ」という思いが決定的になった(「愛弟子・芹澤博文の死」、前掲「棋士という人生」収録)。中原は2年後A級を勝ち抜いて名人戦に駒を進め、大山康晴を破り名人位を獲る。一方芹沢はその後さしたる成績を残していないが、将来の名人と早くから肩入れしていた谷川浩司(17世名人有資格者)との昭和56年のB1順位戦では、酒を断って体調を整え、見事に谷川を破っている。

芹沢は(その真意・背景の記述は略すが)昭和57年に「わざと負けて落ちるところまで降級し、それから全勝して昇級して見せる」という対局全敗宣言をして物議を醸した。これに関して、同じく酒飲みかつマルチタレントで、彼と親しかった内藤國雄九段は、「当然ながら、落ちる方はなんの苦もなく予定通り進んだ。そして公約の切り返しの時期がくる。…今度は予定通りいかない。…棋勢をよくしても、相手に粘られて勝ち切ることができない。それだけの体力がすでになくなっていたのである。…生きる拠りどころとしていた(本気を出せばほとんどの者に負けないという)最後のプライド」が砕け散り、芹沢の飲み方が一段と荒くなったと述べている(内藤著「私の愛した勝負師たち」毎日コミュニケーションズ)。

内藤は、芹沢は豪快な藤沢秀行を尊敬しており、呑む打つ買うの三拍子にのめり込んだのも藤沢の影響だとしている。そして同じく藤沢に惚れこみ兄事した米長は藤沢から三拍子以外のもの、すなわち「本職」への強烈な情熱を吸収したと述べ、芹沢がそうでなかったとして惜しんでいる。

これに対し、色川は、その独特の勝負観から、前掲書の中で「芹さんが低迷したのは、酒色のせいではない。彼の将棋が、どこか一つ、列強を勝ちしのいでいけないものがあったからだ。彼を酒色にふけらしめたのは、その点に気づきはじめた内心だ。…ひと口に強い弱いといってもこのクラスは天才同士の戦いで…体力、人格、気質、運、その他あらゆるもの。どこかが弱ければそこをつかれる。…将棋の実力で将来を展望していた芹澤少年が、次第に、棋力だけでは解決できないものの壁に打ち(ぶち)あたる…まずいことに、芹さんは頭脳明晰だった。感受性も抜群にすぐれていた。そうして、芹さんが手をとって教えた弟分、中原、米長が、後から躍進してきた」と指摘している。(因みに芹沢の葬儀では、中原が葬儀委員長、米長が副委員長を務めている。)そして色川は、芹沢の死を「天才としてしか生きられない人の観念的自殺」と評している。

芹沢の師匠の高柳も、どうして芹沢は将棋を投げ、酒を飲まずにいられなかったかということの理由として、「天才芹沢」の挫折感を挙げている。ただし、それは世上言われている中原に抜かれたことではなく、4歳年下の加藤一二三九段に差をつけられたことだとしている。「神武以来の天才」と称された加藤は14歳で四段、18歳で八段に昇級し、20歳で名人に挑戦した。芹沢の24歳八段も素晴らしいのだが、高柳曰く、「天才芹沢」の挫折感は強烈なものだった。

しかしながら、その加藤にしても名人位を獲ったのは、初挑戦から22年後42歳の時だった。棋界とはそういうところなのである。色川の言う天才同士の戦いの場なのである。

藤沢は自著「野垂れ死に」の中で、自分は世間から「豪放磊落」といわれているが、そう思われるのは、神経が細かすぎて、それに自分で我慢できなくなって、暴走してしまうことが多かったからで、むしろ「繊細暴走」なのであって、そんな自分にとって酒は必要欠くべからざる安定剤だったという趣旨のことを述べている。こんなことをぬけぬけと書くあたりが、藤沢と芹沢の明暗を分けたところなのだろうか。あるいは単に、藤沢の方が肝臓が丈夫だっただけなのか。

与太話の展開が、入院中に読んだ本の紹介から天才のプライド論に流れてしまったが、私が天才の挫折感や、繊細すぎるプライドをめぐる逸話に惹かれるのは、私がここまで、結果がすべての勝負の世界とは程遠いところに生きてきているからであり、世俗の垢にまみれて面の皮だけ厚くなっているからだろう。そして何よりも天才とは対極の人種だからだろう。

私のような気楽な身分とちがって、天才は生きていくのが大変だろうと思う。天才とは程遠い私でさえ酒を飲まずにいられない晩もあるのだから、天才たちが酒を飲まずにいられなかったのはよくわかる。ともあれ傍で見ている分には、天才は素敵だ。まだ病後で酒が飲めないのは残念だが、酒を飲まずにいられなかった天才たちに敬意を表して、今夜の晩飯には酒飲み好みの一品を作るとしよう。

鰯塩焼きねぎ味噌風味のレシピ(2人分)

〈材料〉 鰯4尾、長ねぎ1本(小口切り)、味噌(大匙4)、みりん(大匙2)、おろし生姜(大匙2)

(1)鰯を流水で洗い、鱗が残っている場合は包丁で取る。腹をまっすぐ切って、切り口から内臓をかき出す。さらに流水でよく洗い、新聞紙の上に並べておく。(キッチンペーパーで水気を拭き、腹の中まで拭いておくとなおよい。)

(2)刻んだねぎをボウルに入れ、味噌、みりん、おろし生姜を加えてよく混ぜ、4等分してスプーンで鰯の腹に詰める。

(3)鰯に1尾当たり小匙半分程度の塩を両面に万遍なく振る。

(4)鰯をロースターに並べ、所定の時間焼く。

(5)焼きあがったら皿に取って食す。好みで、レモンなどを振る。

*鰯(マイワシ)は、一年中見かけるが、旬は5~10月である。春に北上し、秋に南下するので、秋の「下り鰯」の方が、脂がのって美味いと言われる。