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植原 亮 著「自然主義入門 知識・道徳・人間本性をめぐる現代哲学ツアー」

ファイナンスライブラリー

評者

廣光 俊昭*1

植原 亮 著

自然主義入門 知識・道徳・人間本性をめぐる現代哲学ツアー

勁草書房 2017年 定価2,800円(税抜)

「神の道徳論的証明」:「人間が…〔道徳的〕法則のもとにおいて、自分の究極目的を設定し得るための主観的条件は、幸福である。それだから世界における最高の自然的善、即ち我々〔人間〕に関する限り究極目的として促進されるところの善は、取りも直さず幸福である。そしてかかる意味での最高の善〔幸福〕は、人間が道徳的法則と合致するための客観的条件―換言すれば、幸福に値するという条件のもとに摂せられるのである。しかし道徳的法則によって我々に課せられた究極目的のかかる二通りの要求が、単なる自然原因によって結合せられしかもこの究極目的の理念に適合すると考えることは、我々の有するすべての認識能力にかんがみてまったく不可能である。…それだから道徳的法則に適うような究極目的を設定するためには、是非とも道徳的世界原因(世界創造者)を想定せざるをえないのである」(カント『判断力批判』(1790年)、篠田英雄訳)

カントによる神の道徳論的証明といわれるものである。1)個人の目的が幸福であること、2)人は道徳法則に則って行為することで、はじめて「幸福に値する」ものとなること、この二つの条件が自然に結合することは不可能であるから、きっと神が存在するに違いない、というわけである。

このくだりを読んで読者はどのような思いを抱くだろうか。評者にはカントが無謀な企てにからだを張っているように感じられ、カントひいては我々人間がとても哀れなものに思えてきたことがある。この二つの条件が自然に結合することは、いまとなってはよく知られていることである。「進化」のことを考えさえすれば、利己的な個人が同時に利他性を持つことは理解可能である。淘汰の過程では利他性が有利に働くからである。なにか超越的なものを持ち出すまでもなく、自然が謎を説明するのである。

自然主義とはなにか:『自然主義入門』は、哲学や脳神経科学の研究者である、関西大学の植原亮准教授による著作である。著者によると、自然主義とは「この世界は自然的世界であり、そこには自然を超えるものは何も含まれていないし、人間も、したがって人間の心もまた、それを構成している部分にほかならない」という考えである。「第一哲学」という言葉が表すように、哲学は万学の基礎学として真理への特権的アクセスを持つと標榜してきたものだが、この自然主義に立つ哲学者においては、哲学を科学と緊密に結びつけようとする。

『入門』は、様々な論者の間を渡り歩くこと(ツアー)を通じ、この自然主義の骨格を要領よく描き出している。例えば、道徳の由来について、道徳に特化した生まれつきの要素の存在を肯定する論(道徳生得説)と、道徳はあくまでも経験的に形成されるものとする論(経験論)とが対照されている。道徳的判断は直観的に下されることが多い。世界を見渡すと、道徳に含まれている内容はかなり普遍的である。道徳のこれらの性格を説明する上では生得説に利点があり、生得説は学界の趨勢でもあるという。生得説を展開させていく先には、「モジュール集合体仮説」という説があらわれる。人間の心には、様々な課題への対応の型を織り込んだ「モジュール」が組み込まれており、人間の心はそのモジュールの集合体からなるという説である。

『入門』は、生得説の展開を跡付けるにとどまらず、経験論の立場から生得説を批判的に吟味することを通じ、問題の多面的理解に資するよう配慮している。数や論理といった抽象概念は、我々が生得的、アプリオリに持っている概念であると思いがちだが、生まれてからの経験、特に母語の習得が、これら基礎的概念の獲得に大きな役割を果たしているという考えに触れている。そして、生得説と経験論を統合する見地から、我々が直観、熟慮という二種の心のシステムを持つとする、「二重プロセス理論」へと論を進めている。

超越から隔てられた人間とその希望:ここでいう経験論とは人間の心の能力を自然的世界からの経験により説明し切ってしまおうというわけであるから、それが自然主義の立場であることはいうまでもない。ならば、生まれながらにして人間が道徳などの概念(の元)を持っているとする、生得説が自然主義に反する主張であるかといえば、それはまったく違う。生得説のいう生まれながらの道徳概念とは、カントのいう定言命法のような、真理への直接のアクセスに由来するものではなく、先述の通り、進化という自然の過程から生まれたものである。生得説と経験論は、同じ自然主義の土俵のなかで角を突き合わせているに過ぎず、生得説の立場においてさえ人間は自然的世界に閉じ込められている。人間は超越から遠く隔てられている。

真理への直接のアクセスを重視する立場は、「アプリオリズム」と呼ばれている。アプリオリズムとは、懐疑論、例えば、「培養槽の中の脳」(コンピュータに接続されて幻の経験を与えられている脳)のような存在であるかもしれないという類の疑い*2からの挑戦に対し、経験から独立したアプリオリな知識を持ち出すことで、その克服を図る戦略である。『自然主義』において著者は、懐疑論を完全に論破することは難しいことを認めつつも、懐疑論の克服のためアプリオリズムへ向かう途は不毛であり、今後はますます自然主義のプログラムに沿った研究を進めるべきであるとしている。

アプリオリズムあるいは「第一哲学」というロマンティックな企て亡きあとの自然主義の歩みは、散文的で味気ないもののようにみえるかもしれない。それでも、『入門』は、それなりに興味深い途を示している。「生まれながらのサイボーグ」(アンディ・クラーク)という考えがそれである。我々の心が直観と熟慮というふたつのシステムからなることは先にみた通りである。このうち熟慮については、公共言語を用いておこなわれることで、道徳等の人工的構築物となって人々の間で共有されるようになる。人間はこのような外部の人工的構築物と一体のサイボーグとしてはじめから生きている。ここまで辿りつけば、公共的討議を通じて、より善い生のためにこれらの人工物を改造することが視野に入ってくる。哲学者には道徳の進歩を促すという役目があることになる。政策担当者には道徳をより効果的に実装すべく制度設計する役割があることになる。これはこれで、ロマンティックとまではいかぬとしても、なかなか刺激的だし、希望を抱かせる企てではある。

それでも人間が自然を超えていることはないのか:「第一哲学」という企てが歴史的存在に過ぎなかったのであれば、いまや「第一哲学」亡き後の生活に落ち着かねばならぬときがきたと割り切るべきなのかもしれない。

それでも、である。真理への直接のアクセスを求める人間の心性は、一過性の歴史上の出来事として片づけられる程度のものだったのだろうか。人間の本性に構造的に根ざしたものと理解すべきものなのではないか。この心性はまず文学として生き残りの途を探ることになるだろう。カントもデカルトもプラトンも文学作品として読む限り、今後も長きに渡って読み継がれるべき価値を持つだろう。

そして、哲学そのものの領分においてもまた、自然主義を乗り越えようとする試みがやむことはないのではないか。例えば、『入門』への読売新聞での評で、東京大学の納富信留教授は、「自然を反省的に捉えるこの視点、そこに現れる普遍性は、すでに自然を超えているのではないか」と指摘されている。「生まれながらのサイボーグ」の議論を思い起こしてみてもよい。そこでは、人間の心は外部の構築物と一体のものとして把握されていた。この議論をもう一歩進めれば、外部の公共的構築物、すなわち道徳、法、科学等もまたひとつの真なる実在であるという認識へと近づいていく。これら言語的構築物こそ実在であって、そのなかで創り出される我々の心は自然を超えた存在なのではないか。文学もまたその意味での構築物の最たるものであり、文学のなかで生き永らえる「第一哲学」もまた、その言語世界のなかで「第一哲学」としての実在性を逆説的に見出すことはないだろうか。そんな妄想をもって、本評は締めくくらなければならない。

本書『自然主義入門』は、近年の哲学と科学の革新を通じ、我々人間のこの世界における立ち位置がだいぶ変わってきていることを知るのに格好の一冊である。この変化を知らずにいることは、アリストテレスの説に触れることなく、古代ギリシアで生を終えるようなもので、まったく遺憾なことである。その意味で、政策の役に立つかどうかは別にして、政策担当者にとっても本書から得るところは大であろう。

*1) 財務総合政策研究所客員研究員

*2) この手の設定は映画『マトリックス』でよく知られているが、実は哲学では古い歴史がある。「そこで私は、真理の源泉である最善の神がではなく、ある悪い霊が、しかも、このうえなく有能で狡猾な霊が、あらゆる策をこらして、私を誤らせようとしているのだ、と想定してみよう。…また、私自身、手ももたず、眼ももたず、肉ももたず、血ももたず、およそいかなる感覚器官をももたず、ただ誤って、これらすべてのものをもっていると思い込んでいるだけだ、と考えよう」(デカルト『省察』(『第一哲学についての省察』)(1641年)、井上庄七ほか訳)。

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