財務総合政策研究所

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10.第九回研究会(6月14日)

(1)総括

東京大学東洋文化研究所所長
原 洋之介


 [1] はじめに


〔 原 座長 〕 今日は、最後の研究会であるので、私のほうから20分ほど総括的な話をさせていただく。

 私が今日述べようと思うのは、この研究会自体のテーマは、アジア通貨危機後のアジアの経済情勢であり、そのこと自体も大変重要なテーマであるが、もう少し大きな視点から、アジアというのはどういう経済なのだろうかということである。そして、結論としてはアジアというのはやはり力強いということを述べようと思っている。


 [2] アジア経済をめぐる最近の言説


  (A)クローニー資本主義論

 アジアの経済危機が発生して、クローニーキャピタリズムという言葉が、日本の新聞あるいはさまざまなジャーナリスティックな議論の中で多く出てくるようになった。要するに、クローニー型の資本主義だったから危機が起こったのだという議論である。

 よく考えてみると、クローニー型資本主義というコンセプトが示しているアジアの経済システムというのは、今回のアジア危機以前からあったわけである。従って、この議論では、なぜこれまでアジアが経済発展をなしえたのかがよくわからない。しかし、私は今日そのことを問題にするということではない。


  (B)オリエンタリズムの復活

 私が特に最近感じるのは、このアジア危機以降、アジア経済をめぐる議論が、30年ぐらい前の議論に戻ったのではないかということである。つまり、30年前には、アジアというのは民主主義がなく、独裁政権であり、専制政権があり、民間に経済的自由が与えられていないために停滞しているのだ、という議論があって、後進国というような言葉が多く使われていた。19世紀になって、ヨーロッパがアジア、つまりオリエントと言われた東方にぶつかって、マルクスもそうだと思うのだが、一種の欧米中心主義的な歴史観というものが出てきた。その文脈の中でオリエンタリズムと言われるような西欧中心主義史観が出てきてしまったのではないかと思っている。モンテスキューの「法の精神」を読むと、非常におもしろい。「暑いところでは人間は怠け者で、経済が発展しないのだ」ということを、非常に詳しく書いてある。現在のクローニー資本主義論とは、まさにこのオリエンタリズムの復活である。

 そういったヨーロッパ近代が生み出したオリエンタリズムのイメージは、専制と停滞であった。結局、停滞を打ち破るのには、現代風に言うと、その専制を打ち破って、自由な市民社会と自由な市場経済をつくるべきであるという議論になっていくのだろう。しかし、ほんとうにそうだろうかというのが私の基本的な問題意識である。


 [3] 世界経済史の流れ


  (A)産業化の流れ

 グローニンゲン大学のアンガス・マディソンという有名な教授が、世界の経済成長を数量的に取り扱うという作業をプロジェクトとしてずっとやってきており、OECDから有名な「Monitoring the World Economy,1820-1992」を出版している。これは学問的にはまだ問題が非常に多いものだが、今回はそういう問題は全部抜きにする。マディソンは、この約2世紀にわたる世界経済の動きを、国民所得と人口によって推計している。価格は1990年を基準とした一種の購買力平価になっており、それをドル価格換算したものである。

 マディソンは、1820年と1992年のGDPと人口について分析しているが、1820年に世界経済のGDPに対する各国のシェアを見ると、第1位が中国の28.6%、第2位がインドの16.0%、日本は6番目にあって 3.1%、アメリカ合衆国は1.8%にすぎない。人口比も中国とインドを足すと世界人口比で50%を超える。したがって、この19世紀前半の1820年頃は、世界の人口センターも経済のセンターもアジアにあったということは言えるのではないかと思う。

 ところが、1820年のアジア各国の1人当り所得はかなり小さい。これは、アジアは人口が多いからで、一方ヨーロッパ、アメリカ、特にイギリスは高いということになる。しかし、これは、この以前の18世紀半ば以降、産業革命、もっと重要なのは農業革命というものがあって、ヨーロッパは人口が少なくて土地が余っているので労働生産性が非常に上がったということによる。ヨーロッパはそういう初期条件のもとに、高い1人当り所得のレベルから、19世紀の産業化が始まっているわけだ。

 しかし、アジアの1人当り所得は低く、日本が704ドル、インドネシアが614ドル、中国520ドル、インド531ドル、タイは約680ドルという数字が出てくる。この低い理由は、東アジアは、18世紀後半に、既に大きな人口増加があり、その人口増加で土地が足りなくなった。アジアの農業は水田が中心で、モンスーン気候帯にあって、労働吸収型、つまり村の中に多くの人口を吸収していくような社会をつくっていた。そういう中で、1人当たり国民所得というのは、1人当たり労働生産性の代理変数だとすると、労働生産性は低い。しかし、土地の生産性をはかると、アジアはヨーロッパに比べて圧倒的に高いという数字が出てくる。つまり、18世紀後半に、エコロジー、人口、土地、いろいろな側面でアジアとヨーロッパというのは違う近代への入り方をしていったわけだ。そして、こうした初期条件の違いを反映して、アジアの1人当り所得は、非常に低いが、人口が多いことから世界経済の中心であったということになる。


  (B)アジアの高度成長

 日本の1人当り所得は1820年の704ドルから、1992年に1万9,425ドルへ急増しており、これはやはり約2世紀にわたって大奇跡が起こったと言えるのではないか。明治維新直後の1870年に741ドルであることから、江戸時代後期50年は経済がスタグナントであったといえる。ただし、その以前は経済成長が非常に高かったということは、最近の日本経済史の中でいろいろ議論されている。いずれにせよ、こういう形でアジアの中で日本が興り、その後の1人当り所得で見ると、1950年以降のアジアの成長率は非常に高いということがわかる。ヨーロッパ、アメリカは、それに比べると成長率が低い。欧米とアジアの経済規模の趨勢を比較すると、例えば1820年に欧米先進8カ国のGDP総額が1,360億ドルであったのに対し、日本、インド、中国、タイ、インドネシアなどアジア最大8カ国の総額は3,430億ドルであり、アジアがほぼ3倍弱の規模であった。ところが、1950年には欧米先進国の2,527億ドルに対してアジアは842億ドルへと低下している。そして、1992年には、アジアの高度成長によって、欧米先進8カ国の総額10,209億ドルに対してアジア最大8カ国の総額は8,871億ドルへと回復してきている。また、同推計によると、1992年に世界のGDPに占めるアメリカの比率が20.3%、それに対して、既に中国が12.9%、日本が 8.6%、インドが、第5位で4.2%である。アジアは、世界人口の中心にあり、再度、世界のGDPに対する比率も回復してきているということになるのではないか。

 このマディソンのデータを使ってアジア開発銀行が危機の前に出した有名な「Emerging Asia」の中に、以下のような話が出てくる。アジアは1820年、今から2世紀前に、ヨーロッパの産業革命が起こってくるころ、世界経済のGDPの6割弱を占めていた。ところが、1940年から1950年にかけてヨーロッパが急成長し、アジアのシェアが低下して、世界のGDPの2割以下の19%程度になった。それが1992年になると3割強にまで回復している。

 そして、2025年に──なぜ2025年なのかはよくわからないが、──ちょうど1820年の数字に戻るであろう。つまり、アジアは世界のGDPの57〜58%まで回復するのではないか。こういう大きな見通しがアジア開発銀行の「Emerging Asia」の中に書かれている。もちろんこういう数字はテクニカルな面でいろいろな問題があるのだが、私はこの動きというのは世界史の大きな流れなのではないかと思っている。

 インド、中国を含む、我々が研究会でほぼ対象にしてきたこのアジアが、対ヨーロッパ、対アメリカで貿易赤字になったのは、実は戦後にすぎないのである。植民地時代も貿易はほとんど黒字である。貿易黒字だから投資収益が上がるわけであるが、インドの経済史家がコローニアル(植民地的な)ドレーンと言っている。つまり、アジアに金銀が行ってしまって、全然帰ってこない。それから、中国も「世界の銀がたまる国」と言われていた。これは、綿、お茶、砂糖、陶器といった物産はほぼアジアから流出していたが、一方アジアでは毛皮などは暑くて着ないので寒いヨーロッパには売るものがない。したがって、銀でしか決済ができないという形になっていた。これが、19世紀初頭までのアジアとヨーロッパとの関係ではないかと思っている。

 そういう中で、産業資本主義というものが出てきて、アジアは相対的に没落の一途をたどっていくわけである。その過程で、いつの間にかヨーロッパの中に大きな自信ができ、先ほど言ったオリエンタリズム的な思考というものが出てくる。しかし、第2次世界大戦後、特に1950年代、1960年代以降、我々の現前でアジアの経済に何が起こっていたのか。もちろんさまざまな問題があった。しかし、それはこういう大きな歴史の転換、つまり、アジアから世界経済の中心がヨーロッパへ、ヨーロッパから19世紀後半から20世紀にかけて20世紀システムと言われる形でアメリカへ、アメリカへ移ったものが、今度、渡辺利夫さんが十数年前にお書きになった本がいみじくも言っているように「西太平洋」の時代に移ってきた。そういう大きな流れがあって、その中にアジアの高度成長があったのではないか。そのような視点がやはり必要ではないかと思っている。


  (C)経済発展に関する「波動論」

 ただ、こうした資本主義的な経済発展というものには必ず40〜50年サイクルの波動がある。そういう波動の中で、成長の時期や後退の時期がある。こうしで波動に合わせて物づくりと金融の2つのセクターの調和、不調和が起こる、こういったことがシュンペーター以来書かれているわけだが、そういった文脈を少し思い起こしておく必要があるのではないか。今度の危機で、やはり波動があるということを一つ記憶しておくべきではないかと思う。


  (D)東アジア経済の特色


   (a) 過剰人口の吸収

 そういう中で私が述べたいのは、東アジア経済というのはやはり強いということである。歴史を見ると、東アジアはこのモンスーン気候帯の中で、高い率で増加する人口をかなり吸収する社会システムをつくり上げてきたのではないかと思う。それが、広い意味での家族制度の問題であり、同族の問題であり、ひょっとすると日本型のムラ、村落といったようなことになるかもしれない。そういった一つの地域社会が強みを発揮するというスタイル、これが東アジアにはあるように思う。ヨーロッパは寒いところだから、小麦しかできない。三圃式農業である。したがって、労働吸収力が非常に弱い経済で、人口が増えると移民という形で出ていく。アジアの場合も、もちろん人口が増え過ぎると、少しでも余裕があると、「フロンティアへ」という形で人口は移動していった。例えば18世紀から19世紀にかけての南インド、南中国からの東南アジアへの人の移動というのはまさにそういうものであり、もちろん全部がムラで吸収されたというわけではないが、そういう非常に労働吸収的な社会部分を持っている。これが存在している限り、危機が起こっても、いろいろなことが起こっても、いわばムラに帰れるという、広い意味でのソーシャル・セーフティーネットというものがあるのではないか。私は今度の危機の過程でタイの村を訪問してみたが、そういう印象を持っている。つまり、こうしたシステムの存在はアジアの強さの1つではないかと思う。


   (c) 貯蓄率

 私は、今度のアジア危機にもかかわらずアジアが非常に強いというのは、貯蓄率の高さにあるのではないかと思う。マディソンの本に非常に印象的なグラフが出てくる。それは先進ヨーロッパ、アメリカの1820年から1992年にわたるGDPに対する投資比率のグラフである。これを見ると、アメリカ、ヨーロッパはほぼ2世紀の間にわたって、対GDP比で投資率が20%ぐらいのところの水準にあり、サイクルはあったものの、傾向的な上昇傾向を示さない。ところがアジアは、中国、インドを含めて右上がりになっている。この理由について、もちろん外国から投資が入ったことなどはあるが、投資率が非常にきれいに右上がりになるアジアと、水準に変化がないヨーロッパ、アメリカとの差は、貯蓄率がほぼ同じ傾向を示していることに起因しているといってよい。

 それでは貯蓄率が高い理由は何かというと、2つの仮説をあげたい。1つの仮説は、やはり人口動態が絡んでいるのではないかと思う。つまり、人口は増えており、そうすると、若年労働力というものが増えてくる。当然、トータルな人口の中での生産年齢人口の比率が上がってくる。彼らは、当然、貯蓄率が高いわけである。アジア開発銀行の「Emerging Asia」という本の一番おもしろいメリットはそこにあると私は思っているのだが、非常にクリアにこのことを書いてくれている。つまり、アジア地域の貯蓄率のダイナミズムの背景に、利子率とか所得の上昇率とか、いろいろな変数はあるが、一番重要なのは、この人口動態の問題ではないかということを指摘している。もう1つの仮説は、アジアの勤労者世帯、若い人たちが家族というものを大切にする、こういったことが絡んでいるのではないかと思う。

 アジアの人口のダイナミズムは、現在もちろん人口成長率がファミリープランニング等で落ちてきているなどの現象はあるが、どう考えても、21世紀前半にアジアが高齢化社会に入って日本型の人口減少に転換するということはあり得ないだろう。そうすると、21世紀前半の50年ぐらいは、「Emerging Asia」が言ったような形がほぼ持続していくのではないかと思う。


 [4] まとめ

 こういうことから考えると、いろいろな論点は多く残したが、東アジア型の経済の持っているムラ型社会、そして人口は多いから過剰人口を吸収する労働集約的(レーバーインテンシブ)なインダストリーはずっと比較優位にあり続けるだろう。それから、外国貯蓄に大きく頼らなくても、国内の貯蓄率が上昇するという意味では、ファンダメンタルズの強さもやはり維持できるのではないか。そういう強みがアジア経済の根本にあるのだということを、もう一回、歴史の中で確認しておく必要があるのではないかと思っている。

 もちろん、今後の経済システムのあり方など、この研究会で随分議論した事柄は全部重要で、その辺の議論をもっとしなくてはいけないのだと思っている。しかし、この1820年以降──1820年というと、ちょうどラッフルズがジャワ統治から、シンガポールを買い受けて植民地を始めた時代であり、このころからイギリスが非常にはっきりと自由主義的な哲学によって東・東南アジア地域を秩序づけようという動きがあった時期であり、政治学の白石隆氏の表現をかりると「自由主義プロジェクト」が始まった。その1820年以降から現在までというのは、アングロサクソンによって、つまり、まずイギリスから始まり、第2次世界大戦後、アメリカへと移って、これまた同じ自由主義的な秩序でアジアを律していくという動きが出てきた。経済史家は「自由貿易帝国主義」とか、いろいろな表現を使っているが、そういった中でアジアというのは、逆の言い方をすると、家族が重要な社会で、コネが重要な社会であり続けたわけである。また、アジアは、経済発展し、不況に直面し、大恐慌も経験している。その後また経済発展し、今不況が来ている。もちろん、こういうアジアのコネ社会、家族主義といったものは、多分、このグローバリズムの時代の中でどんどん修正されていくだろう。しかし、アジアの特徴というものはやはり残り続けると見ておかなければいけないのではないか。

 それがどういう問題をはらんでいくか。これは私にはよくわからない。オリエンタリズム的な批判が常に繰り返し出てくるだろう。しかし、非常に強いダイナミズムと、一方で弱さを同時に示しながら動いてきたアジアの歴史というものを振り返っておかないとだめなのではないかと思っている。特に私は、ここの研究会のテーマからいうと、人口動態との関係で、東アジア地域の国内のファンダメルズの一番重要な一つの因子である貯蓄率にやはり強さがあるということははっきりと認識しておくべきではないか。多分、2050年ぐらいには──もっと早いかもしれないが、2世紀前に戻るのではないかと思っている。

(2)質疑・討議


〔 篠原委員 〕 今回のG7の蔵相会議で危機の場合の資本規制というものが合意された。しかし、多分、マーケット・フレンドリーという言葉であろうが、市場に友好的な規制は認めざるを得ない、あるいは認めてもいいだろうということである。大場氏が、規制というものに、市場に友好的も何もあるのかというコメントを出していたが同感である。

 また、延々とグローバリズムと言われているが、財や物・サービスの通商あるいは投資のほうはまだまだグローバリズムの動きは続くのだろうと思う。金融のほうは、ワシントン・コンセンサスの中で、ウォールストリートのロジックを押しつけられてきたが、ここにきてウォールストリート自身がこれまでの動きをほとんど自分で否定するような感じであり、いわゆるグローバリズムの動きというのはこれから大分訂正されるのではないかと思えて、これは非常に大きなポイントだろう。

 一方、リージョナリズムと言われる動きはかなり明らかになっており、欧州ではその周りは、その求心力に引っ張られる様にアテンションをユーロのほうに高めている。南北米州も同じ様な動きがある。こういうリージョナルの動きの中にあって、今までのようにアジアのほうがあまり自分自身のことに構わないでいると、ウォールストリートにいいとこ取りだけをされて、調子が悪くなったら、さっといなくなるということが繰り返されそうな気がする。したがって、アジア通貨基金でも通貨機構でも何でもいいのだが、リージョナルなIMFタイプの新しい機構をぜひ深刻に考えるべきである。今の原座長の話は、こうした私の考えを裏側で支えてくれるものであると心強く思っている。


〔 原 座長 〕 篠原委員が述べられたことについては、中国と日本の関係がどうなるかということが決定的に重要だと思う。したがって、東アジアにおいてどういう政策、テーマがリージョナルなレベルであり得るかというときに、中国がどう出てくるか。中国ファクターというものが決定的に大きいと思えて仕方がない。


〔 林 委員 〕 最近よく新たな機構の創設の話になるが、何かつくらないといけないというのは、私はそのとおりだと思う。実は別のところの座談会で私は、中国をどう絡めていくかというのが一番重要なポイントなので、そこはきちんと議論しなければいけないという話をした。「たぶん、来世紀の早い時期に中国は世界一の経済大国になる可能性が非常に高い、あるいはその可能性はあるのだ」と言ったところ、この研究会の小川委員から「そんなにすぐではないだろう。遠い将来だ」という話があったが、私はそうでもないような気がする。

 もう一つ、その座談会で話題になったのは、ヨーロッパがうまく行くかどうかはまだこれからを見ないといけないが、なぜうまく行きかけたか、行っているように見えるか。そうすると、やはりドイツがあって、フランスがあって、贖罪と言うと変だが、そういう立場にあるものとしてドイツをとらえて、あるいはそれを政治的に利用しようとしたフランス、この2つの国の役回りが、アデナウアー以降、うまく合っているのだと思う。その比較で言えば、日本と中国はどういう立場で、そういう機構に絡んでいくのかということが非常に大事だと私は思っている。それをうまくやる必要がある。つまり、中国を入れて、そのときに経済力はどっちが大きいかにもよるが、中国がドイツの働きをするのか、日本がドイツの働きをするのか、あるいはそれの折衷かというところだ。その点では、中国というのをやはり念頭に置いて、過大評価するでもなく、過小評価するでもなく──むしろ我々は、怖がっているところもあると思うが、内心、過小評価しているのではないかという気がする──対応していかねばならない。現状というよりは、将来的な中国をどうとらえるかによると思う。

 私の結論からいうと、日本が黒子となって、そういう機構をきちんとつくったほうがうまくいくような気がする。日本にリーダーシップをとってもらおうとアジアの国々は思っていないだろう。だから、日本はパートナーとして黒子で根回しをして、そうした機構をどの程度までつくれるかということになろう。そのときにたぶん、今も原座長の話があったが、アジアの時代が来ており、その点からもますます、その機構というものに中国をどう絡めていくかということが非常に大事になっているだろう。


〔 篠原委員 〕 ベオグラードの誤爆事件がフォローの風になっているのかどうかわからないが、アジア通貨基金、アジア通貨機構について、中国は、ここに来て本気で勉強してみたいというメッセージが私たちのほうに来つつあるということは報告できると思う。


〔 飯島委員 〕 中国の件について、最近、3人の中国の学者の話を聞いたので、それを話したい。私は、3人の極めて教条的な日中関係解釈をずっと聞いていて、この人たちはこういう方程式で解を求めているのだと思った。それはいわゆる中国というのは、方程式上、常数で見ている。言ってみれば不変であって、堂々としていて変わらない。物の考え方も安定している。変わるのは自分たち以外で、変数のほうは日本でありアメリカであるという考え方である。そこで、私はそういう話を提起して反論を試みた。すると、アメリカン大学のチョウ先生の話だが、「天安門事件が起きた。その後、日本は円借款を直ちにとめた。他の国に先駆けて、あたふたととめた。そして、とめたあげく、これはまずいというので、他国のいわゆるサンクションに先駆けて円借款をまたリリースした。日本は迷って、大変なジレンマを感じてそうした。言ってみれば、統一的判断がなかった」ということを話す。それで、私は、「いや、ちょっと待ってくれ。天安門事件というのは中国にとってグレート・ジレンマではなかったのか。いわゆる国際関係論というのは、一つの国を変数と見たら、自分たちの国も変数と見る。中国には相対関係論という立派な思想があるではないか。それなのに、自分のほうを常数に置いて、日本だけうろたえていると考えるのはおかしい。我々から見ると、天安門事件というのがそのジレンマの原因である」という話をした。しかし、チョウ先生は何かきょとんとしていた。

 中国について、先ほど林委員は、リーダーシップは日本はとらないで、黒子となってということだったが、私が少なくとも東南アジアを回って、ゴー・チョクトンの話もオフィスで聞くことがあったが、少なくとも東南アジアのほうは逆に、日本が黒子になっていることに対して頼りなさを持っているというような反響である。

 したがって、私は、中国については、教条的理解というのは、変わるのに相当時間がかかるのではないかと思う。したがって、一回一回、議論の中でそれを相当指摘しなければいけないと思う。

 また、リーダーシップについては、もちろん過去の戦争の問題等々はあるが、いわゆる健全なリーダーシップ──と言うと、また漠然とした表現のようだが、アジアの人たちが負託する側面もあるということを認識したリーダーシップをとっていくというのが、21世紀のあり方かと思う。


〔 原 座長 〕 東南アジアから見た中国について、小松委員に聞きたい。


〔 小松委員 〕 インドネシアは、多分、中国は常に潜在的な脅威だと見ていると思う。それは潜在的な脅威というだけではなく、現実に65年の9・30事件のときの背景には中国共産党がいたと云われている。もう一つは華僑の問題である。華僑はインドネシア経済の大半を動かしており、そこからくる問題である。

 先ほどの原座長の話を聞いていて思ったのだが、華僑の人たちは家族的、ファミリー型の異なる行動様式を持っているのではないか。ビジネスの運営の仕方を見ていても、かなりの程度、家族的、同族的なように思う。その価値というものを私はもちろん認めないわけではないが、そういうものが、例えばインドネシアの中に、enclave を形成し融合していかないと華僑社会と外側の経済システムとに摩擦が生ずる。華僑の内側を支配しているルールと、その外側にある、市場のルールは異なる。内と外の関係というのは透明ではない。この様な華僑の行動様式は、そう簡単には変わらないと思う。そうだとするとインドネシアにおける華僑との緊張関係はなかなか改善しないのではないかという気がする。


〔 斉藤委員 〕 今、小松委員が述べられたことの続きで、華僑型というか、家族を非常に大事にして、それをもとにして経済運営をするというアプローチがある。しかし、これには、常に外からの考え方が入ってきて、今まであるものと外からの新しい考え方を融合する、統合する、そういう努力があったと思う。原座長が一番最初に述べられたように、1960年代、70年代には、アジアは停滞している、アジアは貧困している、ホープレスだと言われていた。しかし、そのときからアジア、東南アジアは大発展を遂げたわけだが、これは、新しい考えが入ってきて華僑的なものから一段レベルを上げたからである。その新しい考え方の1つは日本の近代的な会社運営、会社制度であると思う。その両者の融合ということによって、東南アジアの飛躍が、ある意味では説明できるのではないか。

 そういう意味で、今回またアジア社会には新しい考えが入りつつある。これはグローバルスタンダードと言うのか、ブレトンウッズ・システムというのか、違う考えが入ってきている。今、それを受けとめて新しいものをつくろうと、皆さん悪戦苦闘しているというのが現状だと思う。今、私は、1960年、70年代について、華僑のアプローチと日本的な新しい仕組みと言ったが、同じことは、現時点についてのアジア的経営、日本的経営とグローバルスタンダードと言いかえてもよいと思う。

 もう一点、私の考えをつけ加えたいのだが、中国社会、アジア社会、日本社会のいいところは、外からそういう新しい仕組みが入っても、時間がたつにつれて新しい形がつくられ、換骨奪胎する、そして、アジア的なものができる。その過程がポジティブに出ている間は、世界のほかの地域よりもどんどん伸びていく。ところが、時間がたつにつれて、何となくネガティブのほうが出てくるという面もあると思う。

 それで、この段階では、アジア的経済の運営の仕方はやはり問題があり、グローバルスタンダードを入れる努力をしている訳だ。ここで、あまりにも早く換骨奪胎する、つまり今まであったアジア的なものの弱さに対処する前に新しいアジア的アプローチをつくってしまったのではだめなので、いましばらく我慢をしてグローバルスタンダードを取り入れたらどうかというのが、私の考え方である。

 さらに、もう1つだけ感想を言いたい。さっきも述べたが、原座長が述べられたオリエンタリズムは非常におもしろいと思う。私が学校で勉強していた頃の本は、まさにアジアの貧困、アジアの停滞ということを強調し、アジアは宗教的、文化的、人種的にだめであると書いてあった。私もそうした間違った考え方に毒された訳だが、問題なのは、アジアの人がそう思っていたことであり、そういうことをお書きになった方の罪は大きいと私は思う。

 ただ、それを打ち破ったのは、日本の経験である。日本が戦後、新しい考えをつくり、それを自分で範を示し、日本型の理念をアジアに紹介して、ここまで引っ張ってきた。日本の功績は、さっきの罪の深さとは逆で、大変大きかったと思う。


〔 井上委員 〕 私どもは物づくり屋であり、ほかの産業を代表しているかどうかはわからないが、私どもの会社の基本的な考え方は、今日聞いた原座長の考え方とあまり変わらない。ただ、1つ違うのはいわゆる長期的視点と循環論である。ビジネスというのは循環論の中で行われている。つまり、発展しているところと沈んでいるところが世界にあるわけであり、その中でビジネスは行われている。確かに、そのときそのときによってその地域におけるウエートの置き方というのはビジネスでは変わってきてしまう。だから、考え方は、長期的歴史観みたいなものは原座長と変わらないが、企業としての動きは少し違う動きをするかもしれない。

 アジアの持っている強みに関して、家族的な面、高い貯蓄率、そして中国の問題等は私もほとんど全く同じ考えを持っている。アングロサクソン的な考え方というのは、現在、これをグローバルスタンダードと呼んでいるが、いわばディファクトスタンダードだから、それはある程度アジアも支配されてくるだろうけれども、本質的に民族や歴史や社会の持っているものは、そう簡単に変わるものではない。それはフランス料理を日本的に調理していくのと一緒で、やはりそれぞれの国においてアジア的なものに変革していくだろうと私は思う。そういう考え方で言うと、私どもは、マルチ・ナショナリゼーションというのはローカリゼーションを基礎にしていると考えている。したがって、ヨーロッパにはヨーロッパのやり方、アジアにはアジアのやり方、アメリカにはアメリカのやり方があるという非常にビジネスライクな考え方で私どもは取り組んでいる。

 ただ、ここで起こってきた問題は、やはり金融セクターがアングロサクソンに支配されてきたことにある。この問題は会社の経営にも影響してこざるを得ない。株式の問題やROEやROAなど、いろいろな形で投影してくるわけである。したがって、どうしても若い人を中心に、アングロサクソン的な考え方が経営の中の主流となってくる。この辺が、今、会社の中の一つのジェネレーションギャップを呼んできていると思う。ただし、ジェネレーションギャップといっても、20才代だけが変わっているというのではなく、なり高い年齢まで変わってきており、私の感じでは50歳以下と50歳以上のところでギャップが強く生じていると思う。

 日本が、アジアで黒子になるかどうかということについては、率直に述べると、ビジネスでは黒子になれない。黒子でビジネスをやったら大変難しいことである。大変たけた人がいないと黒子ではできないし、ビジネスというものはやはり表へ出ないとやれないものである。国際展開をするときに、これは30年、40年前から先輩から言われているが、江戸時代の日本の商家の考えと一緒で、「相手がもうからなければ商売は成り立たない」ということである。これは、実は物づくりというのは長期的なものであり、やはりかなり長い時間で商いをしなければいけないわけである。そうすると、長い時間で商いをするためには、相手が利益を上げて喜んでくれないことには商売にならないという考え方がある。それぞれの循環論の中で、相手の要望は変わってくる。今であれば、雇用の確保を優先するとか、政治の問題は経済の裏側にあるから、要望は変わってくる。その要望に応じながら相手の発展を考えないことには商いというものは成り立たないということだろうと思う。

 もう一つ述べたいのは、21世紀に向けて一番大きな問題は技術だと思う。技術は、単にいわゆるテクノロジーという意味ではなく、経営の技術からあらゆるものを含めた技術というものが21世紀の競争の軸だろうと思う。私どもは、アジアに対して考えるときに、ある程度完成した技術は、できるだけ早く現地化する必要があると思う。それは現地化であり、これを移転とは言わない。要するに、技術は移転できない。つまり相手の国の社会に対して溶け込んで新しい技術を創造していくということ以外に技術を現地化する方法はない。これは経営の技術でも車の技術でもそうである。このため、日本としても、その移転する技術については、早い速度で先端的なものを開発していく。そして、その先端的技術を持っていくということが、移転される国にとっても喜びであろう。


〔 大村国際局国際収支課長 〕 幾つかの質問と若干のコメントをしたい。この前からアジア通貨基金などの話が出ているが、私が述べるのも全く私の個人的立場ということで話をしたい。

 1つは、クローニズムの話についてである。これは原座長からも、話があったが、多分、2つの側面があると思う。おそらくそのクローニズムが批判された一番大きな要因というのは、さっきディファクトスタンダードという話があったが、国際金融の大多数を占める投資家から見たら、自分たちと違うことをやっているから他にわかりにくい。わかりにくいところには、一たん事が起こると金が流れにくくなるということなのではないかと思う。 もう一つは、金融セクターをどう見るかという点については、それだけでは済まない面もあるのかもしれない。特に今の情報技術の発展の中で、膨大な情報を集めて分析できるようになった。そういうやり方からすると、おそらくは、直接金融中心のオープンなシステムのほうがそれには乗りやすいというところがあって、そういう今の技術を前提にした場合には、単純に言えばアングロサクソン的なやり方のほうが乗りやすい。そういう意味で、その金融セクターの優位性にも影響しているところがあるかもしれない。ここは多分無視できないところではないか。

 原座長への質問が2つある。

 1つは、座長説を非常に興味深く伺った。基本的にアジアは貯蓄が多くて、しかも農村社会のセーフティーネットもある。そういう形を前提にしていけば、極端に言えば、あまり国外の資本に頼らず、自分たちの貯蓄をモービライズしてやっていけばいいではないか。逆に言うと、アジア通貨危機以前は、どんどん資金を外から借りたのがいけなかったのだ。そういう論を推し進めていけば、ある程度、この閉鎖的な社会で、国内の貯蓄でやっていけばいいではないか。基本的にはそういう認識なのかということが第1点である。

 もう一つは、おそらくグローバリズムとの関係にもなってくると思うが、これもまた極端に言えば、アングロサクソン的な見方というのは、要するに資本の移動を非常に自由にして、あちこち動けるようにすれば、一番効率的なところに資金が流れる、そうなると非常に効率的である。そこに、先ほど篠原委員のほうから指摘があった不安定性という問題があるが、その前提がどうかはともかく、そのリスクをある程度コントロールしていけば非常に効率的な資本というものを使えるのだから、それは閉鎖的な社会に比べて成長率は高くなる。そういう見方をとった場合に、グローバリズムの中で国内での閉鎖的な方法で行うと成長率格差というのは生じるのではないか。

 おそらく、そこで中間的な答えが出てくると思うが、リージョナリズムというのは、ある程度グローバルに外からも資金を入れるが、文化観、あるいは価値観、経済観も違うところから一方的に資金を借りていると、何かが起きたときに、先行きが不透明となっただけでどんどん資金を引かれてしまう。こうした方法でなく、もう少しお互いにわかり合った地域で資金を融通し合えば、効率性も生かせるし安定性もあるのではないか。そういう背景がかなりあったのではないかと思う。そういった中で、アジアのシステムをどう考えるのかというところがあるのではないか。

 ここで少しコメントしたいのは、中国の話に関連して、日本のリーダーシップについて、前回、田中委員から、アジア通貨危機のときのリーダーシップの問題は専ら日本の問題で、日本にリーダーシップがなかったことにある、という話があった。おそらく、今の日本経済が非常に弱いから、なかなかリーダーシップをとれなかったというところもあったかもしれないし、我々の説明が悪かったというところも多分あったと思う。しかし、やはり中国ファクターというのは決して無視できないところであった。

 具体的には、アジア通貨基金に対する議論を思い起こすと、先ほど、日本が黒子に徹すべきか、リーダーシップかというような話があったが、私は率直に言って、少なくとも政府レベルでは、ASEANも含めて、やはり日本にリーダーシップをとってもらいたいというのがあったと思う。実際、その資金を出してくれるのは日本しかないわけである。それで、通貨基金構想というのがある程度進んでいった。そのとき、アメリカが自分のリーダーシップを維持しておきたいということがあった。それから、明らかにあの時点では中国は、積極的ではないというか、むしろネガティブに足を引っ張る側であったわけである。なぜそうなのかというのはよくわからない。ところが、最近になって、中国からそうした構想をやろうというようなことを言ってくる。こうした中国のいろいろな価値観、戦略の変換というのはなかなか読みづらいところが確かにあるだろうと思う。そういった中で、しかし中国は無視できない。そういう中国とどうつき合っていくかということは、日本のリーダーシップもそうだが、中国をどういうふうにアジアのリージョナルなシステムに入れていくかということは無視できないファクターではないか。


〔 菊池委員 〕 私もこの研究会はすごく勉強になったのだが、要するに、どういうタイプの企業を育てていくかということが重要である。アジア的な様式が非常に弾力性を持つのは、資本集約的で借金が多いタイプの企業をどんどん育てていくことによるのではなく、むしろ私は、人材を中心として、小回りのきくような企業タイプが育つことの方が弾力性を持つのではないかと考えている。そういう場合に今一番問題になるのは、為替や金融など、要するにグローバルな尺度で動くものが非常に振動が激しく、それが、逆に実質的な物をつくっているところに非常に影響を与えていることだと思う。おそらく企業側から見ると、人事や、文化に左右されるところは、よりローカルなものでやっていかざるを得ないが、経理や金融についてはどうしてもグローバルな尺度でやらざるを得ない。そういうところがうまく調和する企業形態を選びながら、できるだけ企業と企業の人材の交流をもっと進めて、ネットワーク化を進める形態をとっていくということが今後ますます重要となる。そういう面では今は人材面の動きの制約がどこの国も非常に大きい。人から人に伝わる技術やノウハウの蓄積が、差別化戦略の基盤であり、人の交流をもう少し進める必要があろう。また、金融や為替などに左右されて企業業績が極端に変わってしまうことについては、アジア全体として発展段階に相応した何か対策を講ずるということも必要となろう。もう一つは、お互いに協力関係が保てるような形でいくということがいいのではないか。そういう面でも、やはりできるだけ日本の持っているものがアジアに、人から人にうまく伝わるような形の環境を整えていくところに政策の重点を置いたほうが非常にいいのではないかという印象を持っている。

 もう一つ、これから重要なのは、今、問題がある国ほど若手が育ってくる時期にあると思うので、そういう若手の人たちをどのように育てていくかによって、変革のテンポも違ってくると私は思っている。そういう面では、官僚も企業人も含めて、中国などは特にそうだと思うが、台頭する若手をどう育てていくかが重要ではないかと思う。


〔 林 委員 〕 私は単純に中国礼賛をしようとは思っていないことを一言言っておきたい。現地に行けば、やはりいらいらすることも多いし、私は単純に礼賛はしていない。

 次に、ソロスの相棒で、現在、コロンビア大学の教授をしている個人投資家に、ジム・ロジャーズという人がいる。彼の本を私が翻訳したことがあり、彼が言っていることを幾つかポイントアウトだけしておきたい。日本はファーストクラスの国だと言っている。しかし、来世紀を見渡した場合には、もう日本のことは考えなくていい、もちろんアメリカのことも考えなくていい。それから、もう一つ言うと、子供に何語を教えるべきかということで、スペイン語だろう、さらに中国語だろうと書いてある。中国語をきちんと教えるべきだと、彼は述べている。これも、インプリケーションと言うと言い過ぎだが、やはり通貨と言語というのは非常に似ていて、これから国としても中国語をきちんと勉強していくというシステムをつくらないとまずいのではないかと思っている。それともう一つ、彼はソ連と中国との違いを幾つか挙げていて、それはまだソ連が崩壊する前であるが、ソ連のほうが国土が広く、ソ連はいずればらばらになるだろうと書いている。一方、中国はひょっとして3つぐらいには分かれるかもしれないが、せいぜい3つ程度であり、民族は統一的であると。もう一つ、おもしろいと思ったのは、中国は、資本主義から共産主義に移行して以降も、民族としてまだ資本主義の記憶を残しているとも言っている。たぶん、トウ小平などはそうだっただろうが、彼らの記憶の中には資本主義というものが残っているので、おそらく、みんなが思っている以上に資本主義とはうまくやっていけるのではないかということを彼は言っていた。それと、華僑のネットワークをうまく使っていこうということもその本の中で言っている。

 前回、私は中国が「大国意識」の固まりであるという見方に反論したが、私は、中国には「大国願望」があると理解している。それと、私が先に述べた黒子というのは皆さんと似たことを言っているにすぎなく、単語は狂言回しと言いかえてもいい。私が言いたかったことは金融、政治に限った話で、もちろんビジネスは違うと思う。金融システムあるいは政治のフレームワークの中での話である。黒子という単語で私が言いたかったのは、取り仕切るけれども表に出ないということで、取り仕切らないと言っているわけではない。そういう意味では、さっきドイツ的かフランス的かと言ったが、あるいは日本がドイツ的な立場を目指すべきなのかもしれない。

 取り仕切るけれども表に出ないという点で、日本の大蔵省にぜひ頑張ってもらいたい。


〔 原 座長 〕 林委員の話に関して、大学の第二外国語で今何が一番多いかというと、中国語が多く、ドイツ語やフランス語をやりたいという学生は激減している。


〔 後藤委員 〕 アジアには、中国に対する脅威と日本に対する脅威がある。日本のリーダーシップというのは、難しさはあると思うが、アジアに中国が出てくれば出てくるほど、やはり日本がそこで存在感、リーダーシップを発揮するというのは、アジアの中での安定、パワー・オブ・バランスという中では必要なことではないか。アジアの国はそれぞれ日本に対して、やはり過去は捨て切れておらず、どこかに過去が出てくる。しかし、日本が引っ込んでしまったら、みんな安心するのかといえば、それは違うような気がする。今回の経済危機における日本のビヘービアというのは、日本を理解するという点で、ある意味では少し再認識してもらえたのではないか。

 先ほど原座長が述べられたムラ型社会は、私はどちらかというと農耕民族型と狩猟民族型ということかと思う。日本の企業は、グローバルスタンダードで狩猟民族から攻められながら、一生懸命やっていることはやはり農耕民族型だとすると、短い時間軸の中でやると、どうしてもスピードの違いの中で負けてしまう部分がかなりあると思う。確かに転換しなければいけないのだが、今までのベースである農耕民族型でやっている部分が完全に狩猟民族型に変わり切れない。多分、今グローバルスタンダードとディフェクトスタンダードのせめぎ合いの世界の中にいるというような気がする。

 また、ある意味でアジアの今回の悲劇は、やはり農耕型で生きていると時間的にどうしても長いスパンで動くが、狩猟型の短いスパンで考えるところに押されてしまうところにある。その中で日本がやっていること、日本が農耕型でいく姿勢をアジアに理解してもらえるのではないか。アジアの国から日本の投資が増えないと言われつつも投資は引き揚げない。その中で、タイなどで今度は反対に日本からの追加の融資が増えているというのは、やはり日本のロングタームで物を考える考え方がアジアで理解してもらえるという気がする。

 それから、先ほどあった人口の話で、我々もマーケットを考えるときに人口というのは確かに大きなファクターであるが、人間が多いことがほんとうにマーケットとしていいのかというのは検討の余地がある。経済の規模が拡大する要素に、人口の大きさというのはあるが、それがそのまま経済力につながるのかどうかをどう判断するか。実際問題、人口は経済的ポテンシャリティーとしては常にあると思うが、非常に短期で見たときに、それはそのまま対象になるのかどうか疑問である。


〔 原 座長 〕 最後に質問に答えながら、研究会全体を私の方でしめくくることとしたい。

 世界の文明には2つあるような気がする。1つは、人間と人間の関係を、法律や証文などで縛っていくタイプの文明である。今回の研究会で一切出てこなかったが、イスラム文明は、キリスト教文明とともにこのタイプである。コーランの中にも、親しい間でも必ず証人を立てて証書をつくれというふうに、マホメットが神のお告げとしてメディナで言っている。もう1つ、東アジア型というのは、何となく場(場所)にいて、みんな顔見知りだから、法律や証文などは必要ないというものである。

 クローニーキャピタリズムなどの議論の背景には、何でも証文、法律で、結婚すら契約であるという文明から見ると、東アジアで行われている、証文などはとらないで口約束だけでものごとを進めているというのは、変にしか見えないのだろう。どっちがいいか又は、どっちが効率的か、それはそう簡単には答えられない。ただ、短期的な金の取引になると、やはり証文型のほうが良いといえよう。

 人づくり、物づくりというのは時間がかかる。一日一日の利子だけ高く取る、リターンだけ高く取るような短期の金融資本の流れで、物づくりという時間のかかるほうに資金が流れてないところが1つの大きな問題があり、これから、どういうシステムをつくるのかということになっているのではないか。ここでまたコーランを引用するのだが、コーランには、利子は取ってはいけないと書いてある。ところが、あれは損益は分担していいのであり、全部共同で事業をしなさい、もうけたものまた損は全部分担しなさいと、長期金融のようなことが書いてある。このコーランの中に何か長期金融の原点のようなものがあるように思っている。

 大村課長からの質問については、大村課長は、ほとんど自分で答えを出されている。長期の物づくりに資金が流れるようなシステムを作るためには、東アジアの潜在的に貯蓄率の高い国であっても、やはりある種のリージョナルなものが必要になってくるのではないか。それは、アジア通貨基金といったようなファンドなのか、もう少しロングタームの資金を流すような全然別の形にするのかはわからないが、何か知恵を絞ってリージョナルなレベルで長期に資金を流せるようなシステムを作るべきであろう。

 日本のリーダーシップについて、既に日本政府は積極的にいろいろなことをやったということを知っている。これは政府の役割であるが、我々のパーセプションの問題があると思う。

 中国については、どうも日本人は、20世紀に入るころまでは、文化・文明という点についてみんな偉いのは中国だと思い込んでおり、中国は習うべき先生だというところがあったのだと思う。戦後はそれがアメリカになったにもかかわらず、中国を見ると、どうも実像を見ずに虚像を見るくせがまだある。やはりそういうところで中国に対して常に受け身になっている。つまり、日本がほんとうにしっかりとアジア地域の中で中国と伍してリーダーシップをとれるかどうかは、やはり我々が中国という国を冷静に眺めることが不可欠の前提となろう。そういう意味では、我々の外国認識のようなものを根本的に考え直さないと難しいのかという気がする。中国は日本とは違う国だという認識のもとにつき合っていく知恵を持っておかないと、中国に振り回されるのではないか。私の同僚の「史記」を研究している中国の専門家が「史記」を読んで気がつくことは、あれがもし中国人の歴史認識を書いているのだとしたら、中国人というのは、自分に都合のいい歴史を忘れないために歴史を書いているのである。つまり、歴史から学ぼうとか、そういう気は全くないのではないかということを言っている。これは特にエリートはそうだという。したがって、そういう中国と、気の弱い、すべて歴史から学ぼうと考えている日本人というのは、けんかをして交渉したら、ほとんど負ける。そういう状況に日本があるのだということを冷静に捉える必要がある。しかし、一方、やはりリアリズムで押していくと、中国は、言葉では妥協しないにしても、現実の動きではある程度は妥協しているのではないかという気もしている。軍事面でも、中国の軍事力は強いと言われているが、いざとなったら、多分、中国は出てこないのではないかと言う軍事アナリストもいる。

 21世紀の最初に日本が経済も含めてどういうアジア外交をやっていくかというときに、私はポイントになるのは中国だと思う。多分、アメリカより中国のほうが日本人にとってはつき合いにくいと思う。ここを冷静にわきまえておくことではないかと思っている。