財務省財務局60年史

第1章  総論

第1節 総説


昭和24年6月1日、大蔵省設置法施行により大蔵省の総合出先機関として財務部が発足してから60周年を迎えた。

本誌では、この10年間の業務を中心に記述することとしているが、個々では財務局の発足の経緯や今日に至るまでの歴史概要について振り返ってみた。

財務局を取り巻く60年間の歴史概要

1.はじめに

戦後の混乱期から今日の世界同時不況までという決して平坦ではない歴史の中で、財務局は、国の出先機関として財政・金融政策の執行に携わると同時に、中央の諸施策を地域に浸透させ、また、地域の要望や意見などを中央に伝える役割を担ってきた。そうした意味からは、財務局に寄せられる地域の信頼や期待は、地域経済に密着した財務行政が着実に継続されてきたことの一つの帰結と見ることができるだろう。

以下では、財務局がどのような経済環境の下でそれらの業務を行ってきたかを、主な機構の変遷を掲記しつつ概観する。

2.財務局の発足(昭和24年)から高度成長期の終焉まで

戦後、膨大な旧軍財産の引継ぎを始め国有財産関係事務が著しく増大したことなどを背景に、昭和24年6月1日、大蔵省設置法施行により大蔵省の総合出先機関として財務部が発足し、従来の財務局地方支部は財務部支部となった(10財務部、42財務部支部、92出張所、33管財支所)。翌25年5月からは財務部は財務局に昇格し、名称も、国税局との呼称の混乱を避けるため所在都市名から地域名に改められ、次いで、26年5月には、財務局は局長官房(関東は総務部)と理財部、管財部の体制となった。

昭和24年当時の我が国は、GHQ占領下にあり、単一為替レート(1ドル=360円)を設定、日本国有鉄道と日本専売公社が発足、シャウプが第1次税制勧告を行った時期でもある。その後、我が国経済が高度成長を遂げる中で、大蔵省の地方支分部局としての財務局の組織・業務は飛躍的に充実していった。

  • (1)戦後インフレの克服

    まず、戦後の経済復興は、終戦処理に伴う財政拡大や復興金融公庫債の日銀引受けなど、生産の回復に結びつくインフレ政策によって進められたが、その結果、我が国は急激な物価騰貴にみまわれた。こうした事態に対処するため、昭和24年にはドッジ・ラインが導入され、物価統制のための価格補給金の漸減、復興金融金庫の新規貸出停止などが行われた。また、財政については、22年以降均衡予算原則がとられていた一般会計に加えて、特別会計、政府関係機関を含めた財政全体の収支均衡を図ることとなった。このドッジ・ラインによる財政引締め政策の導入で、インフレは急速に収束していった。

  • (2)講和条約の発効とその後の高度成長

    ドッジのデフレ政策によって後退した景気は、朝鮮戦争にともなう特需で一時回復を見たが、昭和26年には休戦と世界的な景気後退の影響から、国内景気は悪化していった。これに対し、「サンフランシスコ講和条約」発効後の財政は、27年度補正予算以降は上記の総合収支均衡を放棄し、景気拡大を目標とした。このような積極的財政政策の効果もあり、28年頃には国内経済は上昇に転じたが、国際収支が悪化したため、財政支出は29、30年度ともに前年度並みに抑えられるとともに、金融も引き締められた。これは、国際収支対策の観点から戦後初めてとられた本格的な引締め政策であり、このような政策パターンは40年代前半まで継続された。

    昭和29年に一時後退した景気は30年には回復をみせ、「神武景気」(31カ月)と呼ばれる好況を現出し、我が国経済は高度経済成長への軌道に乗ることとなった。なお、景気が拡大し株価は急激に上昇したものの、間接金融を通じた資金供給システムが活用されて直接金融との格差が拡大し、証券会社の体質強化や法令遵守の向上に結びついたとはいえなかった。このため、証券会社の経営の安定確保や投資者保護に資するため、証券会社の個別指導を行うこととし、財務局では35年から理財部に証券課が設置された。また、この頃から同じく理財部に経済調査課が設置され、大蔵省の触覚として地方経済等に関する調査を充実し、地域経済の動向に即した機動的な財政金融政策を展開しうる体制が整えられた。

    昭和30年代の財政は公共事業、社会保障関係費等のためにおおむね拡大を続けたが、これは高度成長に支えられた自然増収によって十分に賄われ、一般会計における均衡予算原則は堅持された。また、この間しばしば景気の過熱から国際収支の悪化を招いたが、それに対する引締めには窓口規制などの金融政策が主に用いられ、財政は総じて景気安定政策として積極的に利用されることはなかった。しかし、30年代後半に入って、33年以来続いた「岩戸景気」(42カ月)の終焉を迎える頃には、自然増収にも翳りが見られ、高度成長を支えるための財源として公債発行の必要性が論議されるようになった。

    その後、国際収支の悪化から昭和38年度に引締めに転じた我が国経済は、40年には不況の様相を濃くした。このため、40年度には歳入補填の公債発行を盛り込んだ補正予算を組み、財政による景気の下支えを図ることとした。こうして、財政は公債発行という政策手段を備えることとなり、景気調整機能は著しく強化された。このような積極的な財政政策の効果もあって、景気は41年後半から民間需要を中心に急速な回復を示し、その後45年まで「いざなぎ景気」(57カ月)と呼ばれる好況期を迎えることとなった。

3.第1次オイル・ショック(昭和48年)からバブル経済の生成まで

昭和40年代前半まで続いた高度経済成長も終焉を迎え、2度のオイル・ショックがもたらした異常なインフレや不況によって、我が国経済は大きな混乱に陥った。更に、その後の経済成長率は、高度成長期を大きく下回って推移することとなった。

そして、このような経済社会の構造変化や混乱を背景に、地域経済の安定がそれまで以上に重要な課題となり、財務局においても、例えば財政金融関係を所掌する理財部門では、主計、金融、証券、企業財務、地方財政、経済調査などにおいて、その守備範囲が急速に拡大していった。

  • (1)第1次オイル・ショックとその後の安定成長

    昭和48年には、中東戦争の勃発を契機とする第1次オイル・ショックが発生した。インフレと投機が急激に高まったため政府は抑制策に転じたが、49年にはマイナス成長となるなど、我が国経済は深刻な不況に陥ることとなった。また、財政運営においても、48年度以降の税収が急激に落ち込む中で、福祉の充実や社会資本整備といった重要課題への対応を迫られ、その後の公債発行に拍車がかけられた。なお、この頃から、大蔵省の施策に関する広報活動を積極的に推進するため、財務局に財務広報官が設置され、50年代には財政の現状について広く国民に理解を得るための財政再建キャンペーン、次いで、60年代には税制改革の必要性等について国民各層の理解を深めるための税制キャンペーンが行われた。

    国際金融の分野では、昭和48年2月には円の変動相場制への移行、同年7月には相互銀行の外国為替業務が開始された。財務局においては、49年から理財部理財課で外国為替検査を実施することとなった。

    一方、我が国経済は、昭和54年の第2次オイル・ショックの発生によって石油を始めとする資源価格が高騰し、その後は世界的不況の影響もあって、成長率は55年から58年までは3%前後で低迷した。

  • (2)バブル経済の生成

    昭和60(1985)年の「プラザ合意」後の急激な円高と景気の後退に対して、政府は財政金融両面にわたる景気刺激策を実施したが、その効果が61年末頃から内需を中心とする回復となって現れ始めた。その後は、公共投資が景気回復を牽引し、これに設備投資と個人消費が加わって、内需中心の力強い自律的回復が生み出された。こうした経過によって我が国経済は、昭和61年11月を景気の底とし、その後平成3年2月まで約4年半にわたる長期の拡大を続けたが、景気拡大の過程で土地や株式の資産価値の上昇を前提とした投機的取引が無制限に拡大し、これに金融機関の積極的な融資姿勢が加わって、投機が投機を生むという状況が現出したのであった。

    このように有価証券投資が増大する中で、健全な投資顧問業へのニーズが増大したことを背景に、投資顧問業に関する法律が施行され、財務局においては、投資顧問業者の登録・検査が昭和61年から開始された。

    一方、この時期の財政運営においては、税の直間比率の見直しも計画され、所得税等の減税に合わせて平成元年に消費税が導入された。

4.バブル崩壊後の1990年代

我が国の1990年代は、バブル経済の崩壊を契機として、社会全体に閉塞感が広がっていった時期であり、また、その後半においては、アジア通貨危機などの外的ショックに加え、国内金融機関の相次ぐ破綻によって金融システムへの信頼が著しく低下するなど、景気回復への阻害要因が様々な形で出現した時期であった。

なお、そうした中で行われた金融行政機構の改革によって、平成10年6月には総理府の外局として金融監督庁、12月には同庁を改組して金融再生委員会が発足し、財務局においては、それらの機関の委任を受けて民間金融機関等の検査・監督事務を行うこととなった。大蔵省の業務では、7年1月の阪神・淡路大震災の発生後は理財部門の業務の一つである災害復旧事業費査定の立会が実施され、単一の災害としては戦後最大規模の事業費決定となった。また、国有財産部門では、バブル崩壊後に急増した物納財産を早期に処分するため価格公示売却制度の導入や、一般競争入札による処理促進などが図られた。

  • (1)経済再生へ向けた動き

    「平成景気」(51カ月)と呼ばれた景気拡大も、平成2年末頃から拡大テンポが鈍化し、3年春に訪れたバブル経済崩壊後は調整過程となった。即ち、個人消費が低迷し、設備投資も資本設備のストック調整や在庫調整の動きが続いた結果、平成5年の成長率は昭和49年以来のマイナスとなった。

    やがて、平成5年10月には景気の底となり、経済は回復へと向かったものの、翌6年には個人消費・住宅投資に翳りが見られたうえ、7年は阪神・淡路大震災の発生、急激な円高、アメリカ経済の減速などが重なり、景気回復も足踏み状態となった。このため政府は、財政金融の両面から本格的な景気の下支えに乗り出し、同時に円高是正にも取り組んだ。そうした政策対応に加え、移動体通信の急速な普及拡大など市場の動きも相俟って、7年の末頃から9年夏頃にかけて、景気は民間需要を中心に緩やかな回復へと向かった。なお、この間、いわゆる住専処理をはじめとする不良債権問題の解決を図るため金融関連6法が8年度に制定されるなど、バブル崩壊の後始末を図るうえでの対応には一応の進展が見られた。

  • (2)アジア通貨危機後の経済混乱

    平成9年春には「岩戸景気」に並んだ景気回復も、同年の秋以降は後退局面に入った。即ち、堅調だった個人消費・住宅投資が低迷に転じ、また、9年7月タイ・バーツの下落をきっかけに発生したアジア通貨危機の影響などから輸出が減少に転じるなど、外需にも翳りが見られるようになった。

    更に、企業活動などにバブル崩壊の余韻が残る中、平成9年11月には北海道拓殖銀行、山一證券、三洋証券など金融機関の破綻が相次ぎ、金融システムへの信頼低下の影響などから、景気はいよいよ厳しさを増すこととなったのである。こうした情勢の下で、超大型の景気対策が相次いで打ち出され、各種の政策対応が本格的な効果を現し始めたことなどから、11年1月にはようやく景気の底入れとなった。ただし、その後の経済の基礎体力は弱く、12年秋には再び後退局面に入り、この景気回復は戦後最短に終わった。

5.財務省の発足(平成13年)から今日まで

平成13年1月の省庁再編により、明治2年以来続いた大蔵省は財務省となった。また、金融再生委員会の改組とともに内閣府の外局として新たに設置された金融庁が金融に関するすべての事務を担うこととされ、その事務を地方において行うものについては財務局に委任されることとなった。一方、我が国経済は外需依存の体質を脱しきれず、やがて、戦後においても稀に見る困難な局面を迎えることとなるのである。

また、財務省発足後の財務局においては、地方分権改革の推進による都道府県知事からの移管事務のほか、様々な新規業務が発生しているが、その時々における経済社会情勢の変化に呼応した行政需要に積極的に対応しているところである。

  • (1)経済の長期低成長

    平成12年秋以降の我が国経済は、世界的なITバブル崩壊の影響などから景気後退局面となった。その後、13(2001)年9月11日のアメリカの「同時多発テロ」を契機に世界経済が不況に陥るリスクが高まる中、我が国の景気も悪化の様相を呈した。しかし、イラク戦争勃発後減速していたアメリカ、アジア地域の経済が回復に向かい、また、円安となって輸出が増加に転じたことなどから、我が国の景気は好転して14年1月には底入れとなった。その後は、設備投資を中心に前向きな動きが続き、消費や投資の下支えによって、14年から19年にかけては平均2%程度の成長が続いた。

    財務省の総合出先機関である財務局においては、地域に密着した経済官庁としての機能をより一層発揮するために、平成13年には、これまで理財部に置かれていた経済調査課を各部の情報が集中する総務部に移管し、財務広報相談室(官)との連携を強化することにより、その情報の受発信機能を強化し、各種広報活動の更なる充実を図ることとした。

  • (2)低成長下での世界同時不況の発生

    平成19年10月を景気の山として戦後最長の景気拡大(69カ月)も終わりとなり、年末頃から景気後退局面に入った我が国経済は、20年秋以降、アメリカのサブプライム・ローン問題やリーマン・ショックに代表される世界的な金融危機の影響を受け、世界同時不況の下で、かつてない景気悪化に直面した。また、実体経済の面からは、世界的な貿易の縮小によって自動車、IT関連製品等の輸出が急激かつ大幅に落ち込み、それらの結果、OECDのエコノミック・アウトルック(2009年6月)による20年第4四半期と21年第1四半期の我が国の成長率は、主要先進地域の中でも最も著しい落ち込みを記録した。

  • (3)財務局における近年の新規業務

    省庁再編、地方分権、規制改革など、行政改革を促す大きな流れの中で、財務局の業務内容にも変革が求められることとなった。即ち、「地方分権一括法」の施行を受けた地方分権改革の推進により、都道府県知事から平成12年には信用協同組合の検査・監督事務が、17年には法定外公共物の直接管理が移管された。

    更に、予算執行調査、地方公共団体の財務状況把握、庁舎の使用調整、外国為替証拠金取引業者の監督、少額短期保険業者の監督など、財務局では様々な新規業務が発生している。

6.むすび

このように、半世紀以上に及ぶ長い歴史の中で、財務局は、経済社会の変化に迅速かつ適切に対応し、また、そのために必要な機構・業務内容等の充実に努めてきた経緯がある。

今後も高齢化と人口減少が急速に進行する我が国において、地域に活力と安全・安心をもたらすための財務局の役割は極めて重要であり、引き続き地域の経済社会に密着した財務行政の遂行が求められているところである。


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