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加藤博太郎

思い出すことども

元四国財務局長(昭和45年6月〜46年6月)

加 藤 博太郎

 昭和45年6月30日四国財務局に着任した。当時はまだ昭和37年の勤評事件の処分取消訴訟の控訴審が継続中で,その判決が年内に出されるだろうと見込まれていたが,そのことが日常業務に影響を及ぼすようなことは全くなかった。それよりも行政機構簡素化のために財務部を廃止して,所要の地に現地事務処理機関を置くことが論議されるようになり,その方がより切実な問題であったけれど,結果的には実行されなかった。

 着任してまだ間もない8月に,台風10号が高知市の西方に上陸して四国を縦断して行った。高知市の浸水被害が大きいというので,すぐ救援調査員を派遣するとともに一両日して現地見舞に出かけた。市街地の水はもう引いていたけれど,水に濡れた畳,寝具,家財道具,使い物にならなくなった商品類等が軒並み道路に積み上げられていて,それら膨大な廃物の取り片づけだけでも大変な作業を要することであった。職員,家族に人的被害がなかったことは幸いであった。

 理財部関係で記憶に残っているのは高松相互銀行と兵庫相互銀行の合併である。四国から相互銀行が一つ消えてゆくことは淋しいことではあったが,大局的には結構なことであり推進した。色んなことがあって林宥治社長も随分苦心されたが,46年4月,目出度く調印ができた。

 財政金融懇談会は二度開催した。一度は中橋敬次郎審議官を招いて阿波銀行で行い,二度目は澄田智事務次官を煩わして伊予銀行で行った。四国の経済力の全国に占める比率は低く,中央の施策の効果もやや時間をおいて現れて来るような状況であったが,それでも白鳥の手袋,今治のタオル・中小造船,三島の製紙,徳島の木工,高知の石灰・和紙等地場産業の動向は経済の動きを示す大事な指標であった。当時はスタグフレーションという言葉が使われるようになっていて,引締めを続けてオーバーキルのそしりを受けてはならないし,緩和して直ぐ又引締めを要することになってもいけないという難しい情勢であったが,46年度になってからは公共事業等の施行を促進することとなり,高知市で行われた地方行政連絡会議に出て行って,その説明をし協力を要請したりした。

 管財部関係では,善通寺出張所も既に廃止されていて,財務局が管理している普通財産は大口のめぼしい物はなく,高知県の海浜地等価値の低いものがその大部分であった。したがって不法占拠等要処理財産,用途廃止された旧公共用財産の処分等細かい仕事が中心で,それだけに手数のかかることが多いようであった。その他高松第二合同庁舎や坂出港湾合同庁舎の建設,高知刑務所の移転,不動産の鑑定等の仕事が時間をかけて行われていた。

 レクリエーションは局部それぞれに色々行われていたが,クラブ活動もわりに盛んで「とんび会」というゴルフ同好会には私も参加した。志度,高松国際,鳴門などがその舞台で,南条君という飛び抜けて上手な人がいたけれど,その他は概ねどんぐりの背競べで誰が優勝するか分からぬ楽しみがあって面白かった。

 私は偶々永年勤務者表彰を受けることとなった。東京椿山荘で行われる表彰式には普段上京の機会の少ないような人達を選ぶ慣例であったが,昭和45年度には該当者がないところから,私と多田実君とが行くことになった。行ってみると財務局長では関東の村田博局長と私の二人だけであった。表彰式では野田卯一国会議員が祝辞の中で,これからは先見性と予見性を備えていなければならないと言われたのが印象に残っている。終わってから皇居見学を許された。昭和15年海軍主計科二年現役士官として海軍経理学校に入った翌日,参内して任官御礼の記帳をしたことがあったが,その場所はあそこだったのだろうかなどと三十年前を回想してみたが,分からないまま家内と共に見学の一団の中で静かに皇居を一巡した。

 四国の玄関口は高松港で,本州との連絡は大きいフェリーボートはあったけれど,やはり国鉄の宇高連絡船が主流であった。四国を去る人を見送る時は,5色の紙テープの端を束ねて連絡船の欄干に結びつけておき,見送る人はテープの丸い芯に指を通して持っていると,船が桟橋を離れるにつれてテープが伸びて,たくさんのテープが風をはらんでせわしく揺れ動き,やがて指を離れたテープの束は船腹に沿って大きく翻るが,船体にからみ或は海面に触れるのを船が港外に出て針路を所定の航路に合わせる頃まで,じっと見送る。まことに情緒があって名残りを惜しむ風情はえもいわれぬけれど,一寸時間がかかる。それで私が四国を去る時は飛行機を利用することとし財務局でご挨拶を申し上げて,お見送りはいただかないことにした。それでも部内の人達だけでなく外部の方も幾人か高松空港までお越しいただいた。飛行機がいよいよ滑走を始め空港ビルの前を通るので,見送っていただいた方々をもう一度確認しようと全日空のYS11の小さい窓から覗いだけれど,確認しないうちに機体がふわっと浮き上がって,やがて大きく旋回し,機首を東に向けて四国を離れて行った。

 昭和46年7月初旬の暑い日であった。


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