ファイナンス 2018年1月号 Vol.53 No.10
9/60

1869年(明治2年)7月に大蔵省創設明治初期、徳川幕藩体制が全面的に変革され、新しい統一国家の基礎が固められてゆく時代、大蔵省は明治新政府の中央政治機構整備の重要な柱として、1869年(明治2年)7月8日に創設されました。当時の行政機関には、大蔵省のほかに、民部省、兵部省、刑部省、宮内省、外務省の6つの省がありました。大蔵省は、国家財政を担当する役所でしたが、当時としては、財源を調達し、有効に分配するばかりではなく、将来の国の産業開発の見通しにまで立ち入らざるを得なかったため、内政のあらゆる分野を受け持つ行政機関として発足しました。ここでは、大蔵省のどこの、どのような庁舎に入って仕事をしていたか、庁舎の変遷をたどることで財務省の歴史を紹介していきます。創設当初の大蔵省の庁舎は、旧忍藩松平忠敬邸跡に置かれました。忍藩は江戸時代に武蔵国埼玉郡忍地方(埼玉県)を領有した藩で、上屋敷は、江戸城の馬場先門にありました。現在の皇居前広場の一画(皇居前警備派出所付近)に当たります。その後、1870年(明治3年)閏10月に皇城(皇居)内に移されましたが、1871年(明治4年)8月には神田橋門内の旧姫路藩酒井雅楽守忠邦邸跡に移転しました。1877年(明治10年)、この邸は改築され、西洋館木造の二階建ての庁舎が造られました。それから数回の改増築を経て1923年(大正12年)の関東大震災まで使われていました。1943年(昭和18年)に現庁舎完成。 戦後は連合軍の接収で使用不能に現在の庁舎が霞ヶ関に完成したのは、1943年(昭和18年)です。1934年(昭和9年)から敷地造成に取り掛かっていましたが、戦時中の資材難で工事が一時中断したこともあり、完成までに約9年を要しました。この庁舎は、幸い戦災を免れましたが、1945年(昭和20年)9月、連合軍に接収されたため、戦後は利用ができなくなりました。そのため、勧銀や証券取引所、内務省などに分散して事務を再開した後、1946年(昭和21年)4月に、四谷第三小学校の建物を改築し、その周辺の土地を買収してバラックの庁舎を建築しました。四谷のバラック庁舎時代は約10年間続きましたが、1955年(昭和30年)にようやく現庁舎の解除が決まり、翌年3月下旬に逐次、各局が現庁舎に戻りました。霞ヶ関庁舎に戻るに当たって、外壁タイルを張るなど改修工事を行い、1963年(昭和38年)に全ての改修工事が完了、現在の姿となりました。耐震性の確保へ改修実施。 2019年10月頃に完了へ国土交通省による耐震診断の結果、財務省本庁舎は十分な耐震性能が確保されていないことから、庁舎の建て替えが検討されました。しかし、財政状況が厳しいことから、建て替えは凍結され、現在、耐震改修工事が進められています。改修に当たっては、建物形状はそのまま残し、免震化を図ることになりました。庁舎内で事務を続けながら、建物の基礎下に免震装置を設置する工法を採用しています。これにより地震による建物への振動を抑制することができます。耐震改修工事は2019年10月頃に完了予定です。庁舎の変遷にみる 財務省の成り立ちと歩みファイナンス 2018.14特集平成30年は『明治150年』庁舎の変遷にみる財務省の歴史

元のページ  ../index.html#9

このブックを見る