ファイナンス 2018年1月号 Vol.53 No.10
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「いろいろ事情がありまして」とだけ応答しておきました。何よりも署名式が無事完了した安堵感に満たされていました。議事進行係が「これで署名式を終わります」の放送を流し、その大臣からも「僕が最後で署名完了か。皆忙しいからね。おめでとう、おめでとう。」と握手を求められました。2012年5月の財務大臣・中央銀行総裁会議から2年半を要しましたが、財務大臣による署名が完了し、各国議会による協定の承認手続きに移行できるようになりました*3。署名式の開催が決定されてから土日を入れても10日間、各国とも、その短い時間の間に、署名者の決定やそれに伴う閣議決定を完了させねばなりませんでした。数か国の国内手続きが間に合わず、直前で開催式を取りやめにする可能性もある、正直に言うとその可能性の方が高い、と覚悟していました。アジアの国の行政的能力の向上と、何よりも国際機関への早期移行に向けた強い意志が示されたことには感銘を受けました。AMROスタッフも獅子奮迅の働きで、障害の克服に尽力してくれました*4。AMROの仕事としては緊密な関係があるのは世界銀行よりもIMFの方です。上に述べたように、世界銀行の会議室を使ったのはC国外務省の厳格な協定の条文解釈によるものでした。署名式の後、多数のIMF関係者から、よりによってIMF本部の道路の向かい側の世界銀行本部で署名式をやるとは、東アジアの人は1997年~98年のアジア通貨危機の時のIMFの対応への恨み(スティグマ)をまだ引き摺っているんだね、と皮肉を言われることがありました。これまで述べたように、10月10日はIMF関係の主要な会議がIMFで開かれる日のため、IMF本部の建物の中では一日中使える会議室が確保できませんでした。アセアンと日中韓の大臣はIMFの建物の中での会議が連続していましたから、その隙間に30分だけ時間を捻出して、唯一確保できた世銀本部の会議室を利用したのが事実関係です。ただアジア側の財務大臣、中央銀行総裁の中には、IMFの道路の向かい側の秘密めいた会議室における「アジア版IMF」設立条約の署名式開催を面白がる者が少なからずいた印象を持っています。(注)本稿は、AMRO創設の過程で自分がどう考えたか、アジアの人とどう付き合ってきたかを中心に、言わば見聞録風にまとめるものです。在職時に加盟当局から受け取った情報に関してはその職を離れた後も守秘義務がかかっているため、個別の経済・金融情勢の機微にわたる部分などについては触れることはできず、また記述の中に一部省略などがあることへの理解をお願いします。どこの国が話を進めたとかを評価するのが目的ではないため、日本以外はなるべく匿名(A国など)で記すことにします。本稿の記述は、AMROまたは財務総合政策研究所の見解を表すものではありません。(前 財務総合政策研究所所長)署名式の写真、会場の右半分だけを写しています*3)2014年10月に署名式が挙行できたため、和訳、法制局審査などの日本国内の作業、手続きを経て、翌2015年の通常国会に設立協定を提出することができました。もし署名式が翌2015年春の財務大臣・中央銀行総裁会議まで遅れたとしたら、日本の場合、翌々年(2016年)の通常国会での審議となったはずで、自分の任期中(2016年5月まで)に日本の国会すら通過していない事態になるところでした。*4)一例だけ紹介します。署名文書原本を寄託者であるアセアン事務局が受け取って署名手続きは完了しますが、その過程で原本を持っているはずのAMROスタッフと丸一日近く連絡が取れないことがありました。当該スタッフは署名式終了の安堵感から爆睡し、その間に携帯電話が充電切れとなっていました。10日間夜も寝ずに各方面を飛び回っていた緊張と疲労の大きさを物語っていると思われます。29ファイナンス 2018.1連 載|国際機関を作るはなし

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