ファイナンス 2018年1月号 Vol.53 No.10
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称は貨幣局)に知らせたのは、五代友厚からの手紙でした。貨幣器械、昨日着船にあいなり天気よろしく候えば明一日九時、請取人数運上所まで御差廻くだされたくと書かれた手紙が、機械到着の翌日に造幣局宛てに出されたのです。香港から来た船はこの時、大阪の天保山沖に停泊していました。手紙に書かれている「一日」とは、1868年(慶応4年)9月1日のことを指します。9月1日の朝9時、造幣局から運上所へ機械の受取人を派遣してほしい、という内容が記されており、この後には「詳しいことは明日の朝、運上所で相談しましょう」という文章が続いています。手紙を受け取った造幣局は、その日のうちに「御申越の趣、承知いたし候」と書いた返事を出しました。機械の運搬や料金の支払い方をめぐって、五代友厚と造幣局との間で手紙のやり取りは続きます。造幣局の建設予定地まで機械を運ぶことは大変困難であったようで、運搬に使う船の大きさや、作業人数についての相談を何度も交わした後、現在の造幣局がある場所まで運ばれたのは、到着から2か月以上たった11月のことでした。造幣機の購入契約から 資金調達までをサポート「貨幣器械組立按」を読むと、香港から大阪まで機械を運ぶ大変さが伝わってきます。また、当時の日本にとって機械購入資金の調達が困難だったことも知ることができます。それと同時に、購入契約から資金調達に至るまで、すべての局面に五代友厚が関わっていたことが分かります。五代友厚の存在がなければ、造幣局の創業はもっと遅くなっていたかもしれません。貨幣機械が造幣局に納入された後、五代友厚の名前が記された古文書は造幣博物館には所蔵されていません。しかし、大阪商工会議所が所蔵している史料の中に、その後の五代友厚と造幣局との関係の一端を知ることができる手紙が残っていました。それは1878年(明治11年)6月5日、五代友厚から東京商法会議所会頭であった渋沢栄一宛てに書かれたもので、当時の造幣局長であった石丸安世に面会し、「久し振にて造幣局拝見の約となり」と記されていました。貨幣機械購入の後、五代友厚が造幣局の業務に直接関わることはありませんでしたが、創業後も造幣局に足を運ぶことはあったようです。もしかしたら、香港からやってきた機械の働きぶりを見に来たことがあったかもしれません。1868年(慶応4年)に日本にやってきた貨幣機械は、その役目を終えた今も造幣局に残されています。そして造幣博物館には、創業の功労者の一人として、造幣局職員が制作した五代友厚のレリーフが掲げられています。貨幣器械組立按イギリス王立造幣局より購入した圧印機ファイナンス 2018.110特集平成30年は『明治150年』庁舎の変遷にみる財務省の歴史

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