ファイナンス 2018年1月号 Vol.53 No.10
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造幣博物館の収蔵庫に、「貨幣器械組立按」と名付けられた一冊の古文書が残されています。ここには、日本が江戸から明治に変わった年に、香港から輸入された貨幣鋳造機械が大阪に到着した時の様子が詳しく記されています。この古文書の中に、何度も登場する人物がいます。名前は五代才助。後の五代友厚です。造幣局の古文書の中に、なぜ五代友厚が登場するのでしょうか…。イギリス王立造幣局の 造幣機械を6万両で購入1867年(慶応3年)12月、王政復古の大号令が発せられ、明治新政府が誕生します。この頃、日本国内には品位や量目が統一されていない悪質な貨幣が流通していました。政府は、江戸時代に貨幣を鋳造していた金座・銀座を接収し、二分金や一分銀の増鋳や天保通宝の鋳造によって財源の獲得を図りましたが、贋金の横行や規格が揃わないなどの問題が発生していました。それらの問題を解消して日本経済を立て直し、世界各国に通用する貨幣を製造するため、明治政府は1868年(慶応4年)に近代的な造幣工場の建設を計画します。同じ頃、香港にあったイギリス王立造幣局が閉鎖され、造幣機械一式が売りに出されました。その機械を六万両で購入する契約を結んだのが、長崎在住のイギリス人トーマス・グラバーと、明治政府の外国事務局判事であった五代友厚でした。五代友厚は、1836年(天保6年)12月薩摩藩の儒学者の家に生まれ、幼名を徳助、才助と名乗っていました。1846年(弘化3年)、薩摩藩の藩校である造士館に入り、1854年(安政元年)に藩の郡方書役(こおりかたかきやく)となります。1857年(安政4年)には長崎で海軍伝習所伝習生となり航海、測量、砲術、蘭学、数学などを学びました。1862年(文久2年)、長崎で御舟奉行副役となり、トーマス・ グラバーと共に上海に渡り汽船を購入します。1865年(慶応元年)3月、薩摩藩の英国派遣留学生団の副使としてイギリス、ベルギー、オランダ、フランスなどを訪問の後、帰国しました。大阪商工会議所の創立など 大阪の発展に尽力1868年(慶応4年)に明治新政府の参与職外国事務局判事を命じられ大阪勤務となり、大阪運上所(後の大阪税関)の長官となります。同年9月からは大阪府判事も兼任しますが、1869年(明治2年)5月に会計官権判事として横浜に転勤の後、同年7月に退官し大阪に戻りました。その後は金銀分析所の開設や大阪商工会議所の創立に携わり、大阪の発展に尽力していくことになります。五代友厚が貨幣機械購入に関わっていたのは、運上所長官として勤務していた34歳の頃です。機械を積んだ船の到着を最初に造幣局(当時の呼五代友厚レリーフ日本経済の立て直しを目指し近代的な貨幣工場の整備に貢献造幣博物館 学芸員 澤﨑 瞳コラム五代友厚と造幣局9ファイナンス 2018.1

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