ファイナンス 2018年1月号 Vol.53 No.10
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よって事態の悪化を防止しましたが、これにより貨幣の価値が下がりインフレに拍車がかかることになり、庶民の生活が圧迫されました。明治に入ってからも日本はインフレに悩まされることになります。インフレの原因となった出来事の一つが1877年(明治10年)に勃発した西南戦争でした。戦費調達のために政府は正貨との交換が保証されていない不換紙幣を大量に発行しました。これにより激しいインフレが発生したのです。このとき、インフレの収束に力を注いだのは、1881年(明治14年)10月に大蔵卿(大蔵大臣)に就任した松方正義でした。松方はインフレによる財政危機を克服するために超均衡財政を敷き、不換紙幣の回収、正貨の蓄積を行い、インフレの収束を図ろうとしました。そして、通貨の価値の安定を図るためには、中央銀行の設立が必要だと説き、1882年(明治15年)、日本銀行が創設されることとなりました。ここに中央銀行を中核とした現在の銀行制度が確立したのです。政府の財源安定へ 税制を整備現在の税制の基礎を作ったのも明治期でした。明治当初、江戸幕府時代からの藩体制が続いており、統一した税制が課題となっていました。大蔵省では1870年(明治3年)12月、「画一ノ政体を立定」、すなわち、廃藩することを求めた大蔵省建議を打ち出しました。その内容は、(1)国防、教育、司法などの諸制度の整備のために、財政支出は今後増大する、(2)政府の収入は、全国総石高3,000万石のうち府県の800万石にすぎず、2,200万石は政府の財政権が及ばない藩の管轄下にある、(3)政府はこのわずかな収入をもって、全国の費用をまかなおうと苦心しているが、一日も早くこうした状態を改めるべきである、というものでした。これが、1871年(明治4年)7月の廃藩置県となって、統一税制への途が開かれることとなりました。また、もう一つの課題として、明治になっても政府の財源となる税金の多くは、農民が納める米であったため、米価変動などにより、政府の収入が安定しないという問題がありました。そこで、1873年(明治6年)7月、地租改正が実施されました。税金は米ではなく現金で納めること、税率は収穫高ではなく地価を基準にすることとなりましたが、事業の進行は、当初、政治的・経済的要因により順調なものではありませんでした。1873年(明治6年)から1874年(明治7年)にかけては征韓問題をめぐる政府部内の対立や、凶作、士族の反乱などが起こるなど、その後も幾多の苦難を乗り越え、「地租改正条例」公布後8カ年を経た1881年(明治14年)6月に地租改正事業は完成しました。これにより、政府は歳入総額の60%、経常歳入の70%前後を占める地租収入を確保しつづけて、様々な国の政策を展開できるようになりました。当時は税収の大部分をこの地租が占めていました。その後は経済の発展などによって地租の占める割合は低くなっていきますが、地価を基準に課税する仕組みは固定資産税に活かされています。地租に代わって財源として大きな役割を果たすようになったのが所得税です。この所得税も明治期に取り入れられました。日本の所得税制度は1887年(明治20年)に創設されました。政府の収入不足を補うため、欧米諸国の所得税を参考に制度設計されたものです。当時の日本の人口は3,900万人程度といわれていますが、所得税の課税対象者は約12万人とごくわずかで、最高税率も3%と低いものでした。その後、1926年(大正15年)の税制改正で所得税が直接税の中心的な位置づけになりました。税の徴収体制は明治期に順次改善、整備され、1896年(明治29年)10月には、国税の徴税機構として、全国23ヵ所に税務管理局が、その下部機構として税務署が設置されました。また、税務管理局は地方における財務行政の一部を担っており、現在の財務省の総合出先機関である財務局のルーツでもあります。次に、財務省における「明治150年」の関連行事を一覧にて紹介します。7ファイナンス 2018.1

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