ファイナンス 2018年1月号 Vol.53 No.10
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税関、中央銀行、税制……明治期に始まった日本の制度貿易が開始された港の 監督を担う運上所を設置江戸時代には鎖国政策を続けていたため、日本と外国の貿易の窓口は長崎の出島だけでした。その後、幕末の1854年(安政元年)に日米和親条約が結ばれると、諸外国に対しても次々と港を開いていきました。港を窓口として輸出入が行われるようになると、貨物の監督や税金の徴収が必要になります。そこで、1859年(安政6年)、長崎、神奈川及び箱館(函館)の港に「運上所」が設けられました。1872年(明治5年)11月28日には、運上所が「税関」と改められ、税関が正式に発足しました。運上所の時代から現在の税関とほぼ同等の業務を担当していました。加えて洋銀の両替、各国領事との交渉、外国人の取り締まりなども運上所の担当でした。職員の公正で厳格な仕事ぶりは、以下の様子からも伺えます。トロイ遺跡の発見者として著名なドイツ人のハインリッヒ・シュリーマンが1865年(慶応元年)に日本を訪れたときのことです。彼は入国の際の神奈川運上所(現在の横浜税関)の様子を次のように記しています。「日曜日だったが、日本人はこの安息日を知らないので、税関も開いていた。二人の官吏がにこやかに近付いてきて、オハイヨ(おはよう)と言いながら、地面に届くほど頭を下げ、三十秒もその姿勢を続けた。次に、中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分(2.5フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて『ニッポンムスコ』(日本男児?)と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである」この精神は現在の税関にも受け継がれています。中央銀行の設置で 通貨の価値の安定を図る税関の周辺は港を中心にして大きな都市へと発展していきましたが、一方で通貨問題が日本の経済を混乱させることにもなりました。安政5年に結ばれた修好通商条約によって「日本の貨幣(銅貨を除く)の輸出は自由」とされ、運上所が両替に応じることになりました。その交換比率が市場の実勢レートよりも外国人に有利だったため、外国商人をはじめとして外国の官吏や軍艦の乗組員までもが大量の洋銀を運上所に持ち込み、一分銀と交換し差益を得るようになりました。また、当時の日本では金1=銀約5の交換比率でしたが、諸外国では金1=銀約15が相場でした。日本の金が銀に対して割安であったため、大量の一分銀を取得した外国人は、日本金貨に交換して海外に持ち出すことで、さらに巨額の差益を懐にしたのです。海外に流出した金貨は10万両以上にものぼったといわれます。幕府は金貨の品質を大幅に低下させる改鋳に横浜の観光名所にもなっている横浜税関本関の建物。1934年(昭和9年)に竣工した。ファイナンス 2018.16特集平成30年は『明治150年』庁舎の変遷にみる財務省の歴史

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