ファイナンス2017年11月号 Vol.53 No.8
23/66

リ4世高校に転校する。ところが、彼はその後、名門グランゼコール(大学校)の高等師範学校の受験に2度も失敗してしまう。そして、パリ・ナンテール大学に編入し、マキャベリに関する小論文を書いて修士号、続いてヘーゲルに関する小論文を書いて高等研究学位を取得する。その後、やはり名門グランゼコールのパリ政治学院を卒業し、2002年に高級国家公務員の養成校である国立行政学院(ENA)に入学、2004年に卒業する。彼は、5位の成績で卒業するはずであったが、試験の審査員に欠格者が選ばれたり、試験問題が一部の者に有利になるような不公平があったりしたことを理由に、2004年卒業者の席次順決定が国務院(最高行政裁判所)で取り消されるという珍事が発生する*1。国立行政学院の成績優秀者は、国務院、会計検査院又は経済財務省財務監察団といういずれもチェック機能を司る機関に配属される。エマニュエル・マクロンも、財務監察団に配属され、財務監察官として勤務したが、2008年に休職してロスチャイルド銀行に入行し、2010年にはマネージング・パートナーに昇格する。彼は2011年以降、大統領選において左派オランド候補を支持、2012年のオランド大統領当選時からは大統領府の事務次長を務め、2014年には経済大臣となった。日曜営業規制の緩和(昔は日曜に店が開いておらずとても困ったが、最近は開いている店が増え助かっている)や、フランス国鉄に独占が認められていて発達していなかった長距離バス事業の自由化(高速道路を走ると長距離バスを本当によく見かけるようになった)など、数々の規制緩和を盛り込んだマクロン法案を提出し、成立させたのが彼の大臣時代の一番の功績であろう。同法案は、与党社会党の一部からも反対が出たため、憲法の規定に基づき、最後は国民議会の議決を経ることなく首相権限で成立させる手続が取られたが、これでもわかるように、フランスでは既得権を奪ったり、労働時間の増加につながったりする可能性のある規制緩和には、抵抗感が極めて強い。3大統領選挙までの政治状況2016年夏のバカンスも終わりに近づき、フランス語で「la rentrée」(再開の意。フランスは学校が9月~翌年7月なので、新学期も意味し、親にとっては学校用品を買わなければいけない大変な時期である)といわれる仕事始めを控えた8月30日、朝からテレビが騒がしい。何かと思って見てみると、マクロン経済大臣がエリゼ宮(大統領官邸)を訪ねるという。テレビは、マクロン経済大臣は辞任するだろう、と言っている。午後3時、エリゼ宮を訪ねたマクロン経済大臣は、オランド大統領に辞表を提出。世論の支持率が2割弱と低空飛行していたオランド大統領は、当時、左派代表として2017年の大統領選挙に立候補するつもりだったから、内心で大統領選挙に立候補するつもりのマクロン経済大臣は閣内で叛旗を翻すわけにはいかず、選挙準備のためにも辞任の道を選んだのだろう。このとき、エマニュエル・マクロンは、問われてもなお、大統領選挙立候補の意思表示はしなかったが、翌年の大統領選挙に触れた上で、「公益に尽くすためのプロジェクトを立ち上げる」「自分の政治的闘争の新しいステップを始める」と述べている。同時に「フランス国民が、極めて大きな困難に直面してきたオランド大統領に公正な評価を下すと強く思っている」と付け加えることも忘れずに。フランスの大統領選挙では、右派と左派が候補者をそれぞれ一本化し、それとは別に極右の国民戦線(Front national)の候補者が出て、これらが主な候補となって選挙戦を繰り広げるのが一般的だが、最近は、右派、左派は候補者の一本化のために、予備選挙を行っている。これは、国の選挙人登録名簿に載っている人は誰でも、それぞれの派の考え方に賛同するとの署名をし、いくらかのお金を払いさえすれば(今回は、各回の投票ごとに右派は2ユーロ、左派は1ユーロだった)、候補者一本化のための投票に参加できるというものである。まず、右派の予備選挙では2016年9月9日に立候補受付が締め切られ、ニコラ・サルコジ*1)ちなみに彼自身も取消訴訟の原告の一人になっている。ファイナンス 2017.1119マクロン政権の誕生、そして初の予算編成 SPOT

元のページ  ../index.html#23

このブックを見る