ファイナンス2017年11月号 Vol.53 No.8
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1それは1年半前に始まった2016年4月、エマニュエル・マクロンの大統領選挙に向けた動きが始まった。一つはエマニュエル・マクロン発で、もう一つは妻ブリジット・マクロン発で。4月6日、エマニュエル・マクロンは、左派オランド大統領政権での経済大臣という役職にありながら、既存の右派にも左派にも属さない新しい政党を、自らの出身地アミアンで立ち上げる。フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の歌詞の一節「マルション、マルション(進もう、進もう)」を想起させる、この「アン・マルシュ」(En Marche!、「前進」の意)の名の新しい政党について、当時、エマニュエル・マクロンは、翌2017年に控えていた大統領選挙に候補者を出すためのものではないと言っていた。大統領選挙への出馬を予定していたオランド大統領の経済大臣としては当然の公式答弁だが、誰もが大統領選挙への野心を嗅ぎ取っていた。しかし、その翌週、4月14日の朝、街のキヨスクに並んだ赤い表紙の有名写真週刊誌「パリ・マッチ」の表紙を、エマニュエル・マクロン、ブリジット・マクロン夫妻が、手に手を携えて大統領官邸エリゼ宮の赤じゅうたんを歩く写真が飾る。これは前年にあった晩さん会のときのプライベートな写真で、紙面でブリジットは政治家の妻として初めて独占インタビューに応じる。そこには、若干38歳にして、孫を可愛がるエマニュエル・マクロンの写真も掲載されていた(ブリジットの孫なので、義理の孫なのではあるが)。普段、頭脳明晰ではあるが傲慢という評判のついて回る彼のイメージを払拭する戦略ではないか、表紙のエリゼ宮の写真も大統領への野心を暗喩したものではないか、と見る向きも多かったが、マクロン経済大臣は、妻がインタビューに応じたことについて「妻は、メディアのシステムを知らなかったのです。彼女は心から後悔しています。」「大切な夫婦・家族のことをさらしてしまったのは戦略ではなくて、間違いなく不器用さだったのです。」と述べている。そして、この記事の掲載を巡って、その後、二人が喧嘩した、という報道もあった。これらの動きは、フランス国民に、エマニュエル・マクロンが大統領選挙に野心を持っていると思わせるきっかけになった。しかし、誰がこのとき、彼がそのわずか1年後に大統領になると予想していただろうか。国民の人気を失った左派オランド大統領に代わり、右派の誰かが大統領に当選するのだろう、だとすると、右派の中で誰が大統領候補に選ばれるのかが重要だと、当時誰もが考えていた。2マクロン大統領の華麗なる経歴エマニュエル・マクロンは、1977年12月21日、パリから100kmあまり北方、大聖堂で有名なアミアンで大学病院の神経学教授の父と医師の母の子として生まれる。高校2年生までアミアンのカトリック系学校に通い、ここで古文の教師だったブリジットと出会う。彼女はエマニュエル・マクロンの担任でも彼を担当する古文の教師でもなかったが、演劇部で彼と演劇の台本を書き上げ、それが二人の関係が変化するきっかけだったと、彼女は語っている。こうした目で見てみると、先に述べた2016年4月に起こった動きも、実は2人で一緒に書いた筋書きだったのかもしれない。高校3年生になるとき、彼女の勧めで、エマニュエル・マクロンは、パリの公立名門高校のアンSpot03マクロン政権の誕生、そして 初の予算編成在フランス日本国大使館参事官  有利 浩一郎18ファイナンス 2017.11SPOT

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