ファイナンス 2017年8月号 Vol.53 No.5
40/48

たが、日本はスリランカ政府に寄り添うような、全くの第三者としてではない独自の形で参加しました。スリランカ政府の要請で出て行ったのですが、そこには相互の信頼関係があったわけです。スリランカの開発を妨げている大きな要因であったスリランカ政府とLTTE(タミル人民解放のトラ)の紛争を何とかしたいということで、LTTEの支配地域に出かけてトップのプラバカラン指導者とも会って、直談判をしましたが、これは不幸にして成功しませんでした。2003年にスリランカ復興会議を日本政府が東京で主催し、現首相でもあるウィクラマシンハが来日し、日本と世界銀行とアジア開発銀行の3者が非常に素晴らしい援助額を誓約したので彼らは涙ぐんで感動したのを覚えています。あの時採択された「東京宣言」は単にスリランカに対する贈り物として約束したものではなく、会議に参加した国々が一緒になってスリランカのこれからの和平の構造を描いたものです。LTTEにもこの会議に参加してほしかったのですが、叶いませんでした。我々の会議の2か月前にアメリカ政府が主催したスリランカ開発に関するセミナーにLTTEが招かれなかったことは差別だとして、東京会議もボイコットしてしまったのです。アメリカはLTTEがテロ団体として指定されているので招待できなかったためです。しかし、LTTEが東京会議に参加すれば、援助もLTTE支配地域に入っていけますし、これからのあるべき姿の原理・原則にLTTEも従うことを誓約するならば、色々な形でスリランカの情勢は大幅に変わっていったはずです。東京宣言はスリランカの激しい民族紛争の解決の鍵のようなものを織り込んでおり、アメもその中に沢山入れていたのですが、彼らはそれに喰いつかなかったわけで、非常に残念でした。LTTEがこういったいくつかの条件を守っていれば、これはプラスのインセンティヴになっていましたが、彼らは従わなかったので、欧米諸国は、彼らがマイナス・リンケージという形で、協力しない以上、援助の量を減らすべきだと主張したのに対して、日本やオーストラリアは反対したわけです。〈日本の外交のあり方〉▶神田 戦後日本のもともとの外交三原則は、国連中心、自由主義国との協調、アジアの一員としての立場の堅持でしたが、地政学的変化の中での米国への軍事的・政治的依存が進んできました。原理的国際主義=平和的孤立主義、ノス復古的国益追求主義=内向的孤立主義も、いずれも、リアリズムを欠きます。未曾有の財政赤字と、新興国台頭による相対的経済地位の低下のもと、札束で外交は我々の世代には過去のものであり、知恵で勝負するしかありません。この関係で、明石元二郎ではないですが、ワシントンやニューヨークでの世論工作の重要性がよく指摘されます。クシュナーさんを持ち出すまでもなく、トランプ政権を見ても、ジューイッシュ・ロビーがなお強力であることは論を待ちませんが、『戦争と平和の谷間で』も示唆されているように、欧米で成功してきたタミル・ディアスボラがタミル独立運動を支えてきたし、カナダ、オーストラリアのクロアチア移民の支援がトゥジマン大統領のクロアチア独立を後押ししたし、ボスニアはルーダー・フィン社等の米国広告代理店を使ってセルビアを悪者のイメージに陥れたともいわれます。日本外交は歴史認識を含む様々な局面でうまくいってないようですが、どうすればよいと思われますか。▷明石 お互いに過去を引きずっており、外交当事者を監視する国会があり、国会の議員の背後には世論というものがあるので、全く自由ではない交渉者がいるわけです。それぞれそういう立場を背負って交渉するので、それにある程度拘束されます。私は現在福田元総理が最高顧問の「東京―北京フォーラム」の日本側の実行委員長をやっていますが、これは民間外交ですから、日本の世論を背負ってはいるものの、それに拘束されるものではなくて、政府より半歩くらい前に行くような心構えでやろうと言い聞かせています。人間的な意味での信頼関係が樹立されると、色々な話し合いがトントン拍子に行く場合もあります。そういう信頼関係の積み重ねをやっていこ36ファイナンス 2017.8連 載|超有識者場外ヒアリング

元のページ  ../index.html#40

このブックを見る