ファイナンス 2017年8月号 Vol.53 No.5
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と加盟できたハンディーにも関わらず、非常に誠実に、また効率的に国連活動に参加し、加盟した翌年秋の国連総会では安保理選挙に当選し、1958年から2年間安保理の非常任理事国として活躍しました。レバノンやラオスの危機などをどう打開するかという機会を巧みに捉えて、国連でかなり信頼される国になり、今まで安保理の非常任理事国としては最多の11回も当選しているわけです。PKO活動は1948年の中東危機に遡る伝統ある活動ですが、国連憲章の中に一言も書かれていません。国連憲章第6章と第7章の間、6章半のところに置くべきだという法律家がいますが、国連の実際のニーズに基づいた活動なので、かなり試行錯誤しながら現在に至っているわけです。48年に始まった停戦監視員による非武装ないし軽武装の監視員が、停戦が守られているかどうかを国連本部に報告するのを基本的パターンとしつつ、56年のスエズ運河危機のときにハマーショルド事務総長とカナダのレスター・ピアソン外相が一生懸命、短期間に緊急特別総会で作り上げたものすごいインベンションだったわけです。そういった段階を経て、1992年のカンボジアPKOは非常に多目的の新しいタイプの国造りの手段として一応成功し、東ティモール、コソボやモザンビークなどに適用されていきます。その後にソマリアの悲劇が起きて、国連はソマリアを撤退するという惨めな結果に終わりました。これに引き続き、ルワンダや旧ユーゴスラビアの問題があり、PKOは一時下火になって、2000年辺りからもっと現実的な、国連にはできることとできないことがある、したがってできることを一生懸命やっていこうという新しい問題意識に基づいて現在に至っていると思います。そのような国連の長い試行錯誤の歴史を振り返りながら、その中で日本には何が期待され、何が出来るであろうかを我々はこれからも考え続けるべきであり、国連PKOは何もできないから、おさらばするというのでは、あまりに暴挙に過ぎると思います。また、戦後日本の平和哲学に目的において合致するものがPKOだと思います。日本に期待されているのは、第一線の歩兵部隊というよりは、おそらく日本が今までカンボジアや東ティモールでやってきたような高度な技術を活用した人道的なことです。国連の関係者からは日本の高いインフラ整備力、医療水準、通信技術、運搬技術、要員の訓練制度といったものがPKO活動に大変に有用なので、そういう面で引き続き大いに汗を掻いてもらいたいと期待の声が聞かれます。その全てに答えられなくても、困った状況に置かれている地域で日本としてできることを大いにやるべきです。▶神田 『国際連合 軌跡と展望』では国連総会決議についても洞察されています。法的拘束力のない勧告に止まり、道義的、政治的説得力しかありませんが、1956年スエズ危機等では画期的な役割を果たす一方、米国のベトナム戦争やソ連のアフガニスタン介入等では無力であったといわれます。また、国連総会の一国一票は、中印の10億人超とツバル、ナウルの1万人前後が同じ権利という点で一票の格差の憲法論で違和感がある一方、少数の権利確保という別のジュリスプルーデンスの要請からも、パリ協定で気候変動から島嶼国の消滅を抑止できた効用主義的観点からも意義があったともいえます。明石さんの総会の位置づけを教えてください。▷明石 確かに総会の決定や決議は、法的拘束力のないものですが、にもかかわらず、国連活動はこれらの積み重ねの上に築かれています。例えば、世界における人権の歩みを辿ってみると、1948年に世界人権宣言が総会で採択されましたが、これは道義的な宣言に過ぎませんでした。しかし60年代になると、拘束力のある2つの人権規約、市民的及び政治的権利に関する自由に関する規約と、経済的、社会的、文化的自由に関する規約の2つが採択されました。更に90年代になると人権高等弁務官という、世界中の国々において人権の状況に目を光らせ、また色々注意を喚起する役職が作られました。以前の人権委員会に比べると強力になり、ジュネーブのみならずニュー34ファイナンス 2017.8連 載|超有識者場外ヒアリング

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