ファイナンス 2017年8月号 Vol.53 No.5
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▷明石 南北対立が最もひどかったのが1970年代の半ばだったと思います。国連で仕事をしている者にとっては、冷戦時代の米ソを中心とした激突も非常に困るものだったし、1962年のキューバをめぐるミサイル危機には第三次世界大戦が今にも始まるかもしれないという緊張感がありました。しかし、南北対立は安保理ではなく、国連総会が中心でした。南側の途上国は3分の2近い多数を持っていて、先進国は経済力が相当あるし、途上国はそれに頼らなければいけないはずなのに、先進国は途上国の提案する新経済秩序に反対しつつも投票においては敗北してしまう窮境に立たされました。アメリカのように国連嫌いな先進国が連なる中、我が国のような真面目な態度でこういう問題に対処しようという国にとっては大変だった時でした。私の40年の国連生活のうち35年は国連そのものにおいてでしたが、一時期、国連代表部に籍を置いて、参事官、公使、大使を務め、国連総会では日本政府代表の一人として行動し、また国連に戻りました。代表部にいる5年間に、国連の第5委員会を担当し、国連予算とか人事、組織問題をやると共に、専門家集団であるACABQ(行財政諮問委員会)の一員として二度選出されました。これは非公開のいわば密議による委員会で、予算問題でかなりの力を持つ小グループであり、第5委員会の決議はそのコメントを経た上で最終的に総会がそれを採択する形になっていました。代表部時代に私が手掛けた一つの問題は、UNIDO(国連工業開発機関)を国連の下部機関から専門機関に昇格させるという作業でした。先進国側、つまりWestern Europe and Others(WEO)の中の日本はothersの一つで、この交渉がウィーンとジュネーブとニューヨークの国連本部で次から次へと行われて、日本は先進国側に立ち、途上国の代表はナイジェリアのアデニジ大使とか、フィリピンのシアソン代表というその後UNIDOの事務局長をやった人もいました。彼らと妥協点を求めてかなり込み入った交渉をし、新UNIDOに、weighted voting(加重票決制)という、世銀やIMFの決定方法に近いものを導入する新しい機構作りをしました。その時アメリカはワシントンからの訓令が来なくて動きが取れませんでしたが、ウィーンにいた日本の鹿取大使の下で、ニューヨークから出張した私と田中というウィーン大使館参事官の二人で、WEOのグループをまとめて、途上国側の比較的モデレートな人達と交渉し、コンセンサスを打ち立てることができました。南北対立に対して良識が勝って、妥協案を見出した数少ない一つの例だったと思います。〈国際連合の在り方〉▶神田 敢えて、失礼なことを申せば、我々、ファイナンス・ピープル(為替マフィアや金融規制コミュニティ)、デヴェロップメント・ピープルは、国連に対して、一種、効率性における警戒感があります。私自身、最初に国連機関と密接にかかわったのは、1994年からの世銀時代にGEF(地球環境基金)を気候変動枠組条約等の資金メカニズムとして本格立ち上げする際に、UNDP(国際連合開発計画)、UNEP(国際連合環境計画)が参加されてきたのですが、とにかくものを決めず、イデオロギー的演説が延々と続いたり、手続き論に終始したり、政策決定にイレレバントな研究発表が出てきたり、驚きました。クォータ制度やネポティズムがスタッフの質を低下させているとも言われます。勿論、世銀・IMFもワシントン・コンセンサスを堅持していた時代は大変酷いものでしたが、今は、成果重視のもと、相手国の改革オーナーシップを得るべく、各国の状況に応じた多様で柔軟な対応をするように改善されています。まずは、国連職員のモラルと質について率直な感想をお聞かせください。▷明石 国連は色々批判されていますし、職員の質とか、士気とか効率についてもどちらかと言えば政治的雰囲気が支配的であり、批判的な意見が多かったと思いますけれども、国連の国際公務員制度は国際連盟の時代に比べればかなり整備されてきています。国連憲章は第101条第3項に職員はどういうものであり、どう採用されるべきかを32ファイナンス 2017.8連 載|超有識者場外ヒアリング

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