ファイナンス 2017年6月号 Vol.53 No.3
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でみるということで、新しい開拓ができるのではないかと思うのです。従って、私が、現代絵画に線を取り戻したのは、ピカソやマチス、あるいはルソーが、「自然に帰れ」といって、アフリカ美術に傾倒したのと同じように、人間の初心を訪ねる、生物としての人間の喜びを体験するといったところに想いを巡らし、芸大の西洋美術では習わなかった、日本が明治維新頃までずっと持っていた初心の喜び、大切さを復活させたいなと思ったのです。これも少しフレスコ画と共通しているところなのですけれども、それでいて、あまり古いところばかりでなく、気持ちとしては新しいことがやりたいなという、そういう維摩経の影響だとも思いますが、双眼で見るという世界を線の面でもやっているわけなのですね。日本芸術の将来▶神田 先生は、上野桜木のアトリエを含め、東京芸大時代のお話もよくされていますが、私は20代、芸大に近い根津に住んでいたので、才能に恵まれ努力を重ねて芸大に入ったものの苦労されている学生さんをよく見てきました。当時は未だ学生がかなり多様だった気がするのですが、現下の東京一極集中のもと、私の母校も東京の地方大学化し、ダイナミズムがなくなっていることを危惧します。そこで、留学生や外国人教員を増やす運動をしているのですが、先生は現在、大阪芸大の先生もされているところ、日本の芸術大学の多様性、開放性、競争性は過去と比べ、どんな状況にあるのでしょうか。▷絹谷 他の分野でもそうだと思いますが、一極集中で、東京にニュース・ソースが集まっていていることは、集積の有利さもあり、一つの大きなエネルギーになっているので、それはそれでいいと思うのです。それと同時にもう少し心を砕いていかなければならないのは、各地方のもっている独自のエネルギーも忘れてはいけないのではないかということです。例えば、博多祇園山笠は、男が褌をして、夜中に水をぶっかけられて、走りまくるような山笠なのですが、京都では、雅やかな祇園山笠、子供たちがチンチンと太鼓をたたいて、練り歩くという、優雅なエスプリの効いた世界でもあるわけなのです。絵も同じことが言えると思います。東京は非常にエスプリがきいていますが、地方では、例えば、棟方志功さんのような非常に原始的で土着した版画のようなものもあります。都会的なものと、そういった土着的な地方のエネルギーはどちらが有利だということは言えないと思います。博多祇園山笠の場合は、あの辺は、昔から、非常に危ないところだったので、外的な侵入などに対して、若い元気な男を育てておかなければならないということもあったのでしょう。一方で、京都の場合は、山に囲まれていて安全であるという安心感が、また、100年の都の蓄積がお祭りの中に現れていると思います。両者をどちらが良いかとは言えませんが、絵画の場合、都会で生まれたものの中には、外国の真似をしている模倣品も多く、感動を呼び起こさないということもあるのですね。ここに、都会の弱さ、脆弱さも兼ね備えていると思います。また、私は「子供 夢・アート・アカデミー」で全国津々浦々まわっていますが、地方の子供たちは真面目だし、無骨だけれども、継続性があるのに対し、都会の子供たちを見ますと、洒落て、生意気なことをいいますけれども、どこか心の中に影を宿していたりします。都会の中に揉まれた苦しさとか、自然と共に生きていない余裕のなさといったものを露呈します。絵もそうで、片方だけに偏っていては、脆弱で、受けを狙うだけのようなものになってしまいます。ですから、日本の絵画がこれから、世界にうってでるためには、ドメスティックなものとインターナショナルなものを踏まえつつ、やはり、日本人の心の中にある、幸せはどのようなものなのか、という想いを、そのまま鏡のように絵にうつしていけばいいのではないかなと思います。それが抽象的になろうが具象的になろうが、どんなジャンルでもいいと思いますが、まず鍛えなければならないのは、都会に住んでいようが田舎にいようが、人間の心、自然や動物、あるいは炭酸ガファイナンス 2017.627超有識者場外ヒアリング63連 載|超有識者場外ヒアリング

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