ファイナンス 2017年6月号 Vol.53 No.3
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と、そこで自分の吐いた息も吸っていってくれる、石も息をしているのだと、こういうドラマは簡易的で便利な世界では味わえない感動なのです。これは、絵を描いていながら、地球と、あるいは宇宙と語れるといいますか、あるいは生命の起源について想いをめぐらすことができるというか、素晴らしい世界が絵画にあるわけです。そういうところで探検ができるということは、私にとって、かけがえのない喜びであり、フレスコ画を描く動機なのですね。▶神田 『群れない生き方』では、色面と色面が接するところに線を入れる画風を小磯良平先生に「つまらん」といわれながらも、貫徹され、御自身固有の画風の確立されたことを述懐されています。線というと、『絹谷幸二自伝』の中で、国立ヴェネツィア東洋美術館において日本の線の文化を発見されたと記しています。線に自然への畏敬の心が残されているとも仰っていますが、線の意義と絵への導入の考え方について、ご教示ください。▷絹谷 日本は古代から明治維新ぐらいまで連綿と、続く線で絵を描いていました。ところが、西洋美術と出会って、線のほかに、調子(明暗)で絵を描くとか、塊で絵を描くとか、いろんな要素が入ってきたわけですが、例えばお子様や古代の方にもし鉛筆を渡したら、調子ではなかなか絵は描けないわけです。調子の度合とかを色々と測ってやらなきゃいけないものですから、勢いよく線でこうびゅっと描いてしまうことになります。ところが、人体には、実は線というものはないのです。輪郭線という線は考えればありますけれども、そのこと自体が非常に抽象的なのですね。エジプトの絵を見ましても、アルタミラの画をみましても、人間の初心がずっと近代まで続いてきたのが、日本の線だということなのです。明治維新になって、西洋のものも学ばなくてはいけないということで、線をなくすといいますか、なくさないとそっくりな絵は描けないという感じになりまして、調子など色々と私共が芸大で習ったようなことを取り入れていったのです。ルネサンスの頃、エジプトやギリシャから西洋人達がそれまで続けていた線の画をなくすわけですね。そのせいで明暗の度合を測って描かなければならない。例えば、線で人間を書くと、袋みたいになります。東洋の人はどちらかというと人間全体を見てしまうという感じなのですね。ところが、ヨーロッパの絵画の場合には、表にできる輪郭線ではなしに、骨の傾きを書き、それに肉をつけていきます。これには大変良い点もあり、例えば、西洋医学の場合、首や頭がこうなっていて、鎖骨がこうなっていて、頭のところを外すことができるのではないかということで、脳外科などで、色々と部分的に外せるようになり、近代医学を発達させたと思います。これに対し、人間は一つの袋なのだという考え方、これが漢方とか東洋医学の考え方になるわけです。例えば、足の爪の裏、指の裏をいろいろ刺激するとそれは脳につながっているだとか、人間の顔色というものは、血液が上にのぼっていくと、赤くなるなど、人間というものを全体としてみるような学問に、線の思想が入っています。しかしながら、部分的に外すことができないから、脳外科のように分けて捉えることができなくなるため、古いとか成長がないものと捉えられもするわけです。しかし、更に時代が進めば、そういうロボット的な考え方が人間にとっていいのかどうかという問題も起こってくるのではないかと思います。人間の輪郭線は、外側にもありますが、口から肛門にいたる、胃腸(消化器官)ともいうものも実は内側の外側といえます。例えば、顔色が悪い人を見た場合、胃も同じことになっているのではないかなという風にも推察できますし、お酒も飲んでいないのに、顔がぱーっと蒸気している人は、血液の巡りがおかしいのかもしれません。例えばこの手を下にすると、下にあると赤いのですけど、これを上にもっていきますと、だんだん白くなっていきますね。僅かこうしただけで、血液の動きが変わっていきます。そういった線で導かれていくということ、生物としての初心といったものも現代医学に含めていったら、やはり双眼26ファイナンス 2017.6連 載|超有識者場外ヒアリング

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