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路線価でひもとく街の歴史

第48回 「神奈川県横須賀市」

造船所が遺したまちづくりのレガシー



幕府が遺した産業遺産「横須賀造船所」

横須賀の近代史は造船所で始まる。慶応元年(1865)年11月、横須賀製鉄所が起工した。軍備国産化を目指し洋行帰りの幕臣小栗上野介忠順(ただまさ)の起案で整備された造船所である。幕府は駐日フランス公使レオン・ロッシュに技術支援を依頼した。整備を請け負い現場で指揮を執ったのは28歳の若き技術者レオンス・ヴェルニーだった。当初「製鉄所」としていたのは、兵器工場を意味するフランス語、Arsenal(アルスナル)を「製鉄所」と訳したからである。6基あるドックのうち1号ドックは慶応3年(1867)3月に起工し、明治4年(1871)1月に竣工した。竣工時は徳川政権、フランス第二帝政ともに瓦解していた。横須賀製鉄所は明治政府に接収され、工部省の管轄となった。1号ドックの完成後、4月からは実態に合わせて横須賀造船所となり、翌年、海軍省に移管された。明治17年(1884)、隣接地に鎮守府が設置されると横須賀造船所はその附属工場となる。明治36年(1903)に横須賀海軍工廠となったが、このときは3号ドックが完成し、4号を建設中だった。
終戦後は米軍に接収され、一帯は米海軍第7艦隊の横須賀基地となった。正式名称は横須賀海軍施設である。石造ドックとしてはわが国初の1号ドックも現存し、主に所属艦艇の修理工場として使われている。第7艦隊は米海軍の海外拠点では最大規模で、指揮艦ブルーリッジ、航空母艦ロナルド・レーガンの他、第7艦隊所に所属する10の巡洋・駆逐艦は横須賀を事実上の母港としている(令和6年1月26日現在)。図1 広域図でもわかるように立地や施設の面では米海軍第7艦隊が旧帝国海軍を継承しており、かつての鎮守府庁舎は米海軍司令部庁舎として使われている。組織として継承する海上自衛隊横須賀地方隊は陸地側に点在している。


業務中心地だった旭町界隈

横須賀市の市制施行は明治40年(1907)で県内では横浜市に次いで早かった。横須賀鎮守府・海軍工廠の門前町として早くから発展していたことがうかがえる。明治22年(1889)年6月、東海道線の大船駅から枝分かれする形で横須賀線が開通した。言うまでもなく横須賀造船所への接続が主な使命だ。今でこそ途中駅だが、昭和19年(1944)に久里浜駅に延伸されるまで横須賀駅は終着駅だった。
神奈川県統計書で、明治20年(1887)末現在、横須賀で最も地価が高い宅地は大瀧町(おおだきちょう)だった。幕末、外国人遊参所を開くため東岸の崖を削って造成した埋立地で最も山側の、今は三笠ビルの通路になっている道がメインストリートだった。大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書には最も賃貸価格が高い場所として山王町、旭町とあった。旭町は海軍工廠の東門(正門)の前にある。この界隈が関東大震災前の業務・商業の中心地で、多数の銀行や百貨店が創業あるいは進出の地に選んでいる。それに対して横須賀駅や、現在の中心地である京浜急行横須賀中央駅の界隈は街外れと認識されていた。
さて、横須賀初の銀行は小野家にゆかりがあった三井銀行の支店である。開店は明治9年(1876)。明治36年(1903)に撤退し第二銀行が引き継いだ。第二銀行は明治2年(1869)の横浜為替会社をルーツとする県内最古の銀行だった。関東大震災で被災し1筋南に移転。その後取り付け騒ぎが起きたことから昭和3年(1928)に横浜興信銀行が営業を引き継いだ。後の横浜銀行である。
次に開店したのは明治29年(1896)の藤沢銀行横須賀支店である。相模共栄銀行(本店藤沢)、浦賀銀行と合併し、明治43年(1910)に関東銀行となった。同行の横須賀支店は現在の横須賀三浦信用金庫の場所にあった。湘南から三浦半島一帯の有力行だったが、震災の煽りで大正13年(1924)に取り付け騒ぎが起きる。横浜興信銀行が始末を引き受けて関東興信銀行を設立し、昭和7年(1932)には自行に合併した。
明治32年(1899)、鎌倉銀行が旭町の隣の元町に支店を出した。昭和2年(1927)に大瀧町に店舗を新築する。昭和16年(1941)、国策だった一県一行主義によって他5行とともに横浜興信銀行に合流し、大滝町の店舗は横浜興信銀行大滝町支店になった。
横須賀発祥の銀行は明治39年(1906)開業の横須賀商業銀行である。本店は元町にあった。大正10年(1921)、川崎共立銀行との合併を機に小川町へ移転。共信銀行に改称したが大正14年(1925)に取り付け騒ぎを起こし昭和5年(1930)に廃業した。東京に本店を構える全国銀行も旭町にあった。大正3年(1914)進出の不動貯金銀行だ。昭和23年(1948)に協和銀行、再編で現在はりそな銀行である。


震災を機に大滝町に移転した百貨店

地元百貨店「さいか屋」も旭町にあった。戦国時代の鉄砲集団で知られる雑賀(さいか)衆の末裔の岡本傅兵衛が明治5年(1872)10月に立ち上げた雑賀屋呉服店をルーツとする。明治11年(1878)には自前の店舗を元町に構えた。大正6年(1917)には同じ場所で2階建の洋館を新築。横須賀初の百貨店だったが、海軍工廠の拡張に伴い立ち退きを求められ、旭町に移転することになった。大正9年(1920)に改めて開店したが、今度は3年後の震災で全焼してしまう。横須賀の街は大正12年(1923)の関東大震災で壊滅、図3 市街図でもわかるように復興で大瀧町から南の区画が大きく変わった。さいか屋は、道路が拡幅された大瀧町での再建を選ぶ。昭和3年(1928)に3階建の百貨店を新築した。昭和9年(1934)、鉄筋コンクリート造4階建の建物を増築し、昭和12年(1937)には既存店の北隣に5階建の店舗を新築した。戦後は昭和28年(1953)に鉄筋コンクリート造5階建の百貨店店舗に建て替えた。その後も増築を重ね、平成2年(1990)には本館の東側に新館と南館を新設。改装前の2倍を超える大規模店となった。


京浜急行の開通と駅前の発展

昭和40年(1965)の最高路線価地点は「若松町2丁目川西陶器店前通り」だった。川西陶器店は京浜急行横須賀中央駅の駅前にあった。なお若松町は福島の会津若松と関係がある。幕末、江戸湾警備を命じられた会津藩は観音崎や三崎に台場や陣屋を築いたが、そのうち観音崎の鴨居陣屋にかかる業務を請け負った業者が若松屋を称した。若松屋が埋め立てた場所なので「若松町」となった。若松屋は浦賀銀行の設立にも関わり、当主高橋勝七(かつしち)は関東銀行の初代頭取を務めた。
横須賀の場合、旭町に対する引力となった駅は京浜急行の横須賀中央駅である。横須賀中央駅は昭和5年(1930)4月に湘南電気鉄道の駅として開業した。鉄道が発起されたのは大正6年(1917)だったが、後の準備期間中に関東大震災が起き、敷設どころか会社設立も危うくなってきた。そこで安田財閥の持ち株会社である安田保善社の出資を受け入れることになり、会社設立に漕ぎつけたのは大正14年(1925)12月である。経営のてこ入れに安田保善社は京浜電気鉄道の役員を湘南電気鉄道に派遣した。当時高輪駅~横浜駅間を結ぶ京浜電気鉄道の大株主だった背景がある。出資受け入れから5年後、黄金町駅~浦賀駅の本線と、金沢八景駅から分岐する逗子線が開通した。翌年の昭和6年(1931)、京浜電気鉄道の南端の横浜駅と湘南電気鉄道の北端の黄金町駅が接続し、昭和8年(1933)4月には品川駅~浦賀駅で相互直通運転が始まった。昭和16年(1941)11月、湘南電気鉄道は京浜電気鉄道と合併。戦時中、東急に合併されたが、昭和23年(1948)に再び分離して京浜急行電鉄が発足した。
震災復興の区画整理、京浜急行の開通を背景に、大瀧町や若松町が戦後の商業中心地となった。昭和34年(1959)に三笠ビルが竣工する。大瀧町の街道の両側にあった商店街が共同で南北180mの細長いビルを建てた。全国各地で整備が進んだ防火建築帯(共同ビル)のはしりである。昭和41年(1966)の丸井を皮切りにチェーン店の進出も始まり、昭和45年(1970)、市内3例目の共同ビル「あづまビル」に西友が開店。その2年後、増築した「センターヨコスカ」に緑屋が出店した。昭和50年(1975)、「横須賀中央合同ビル」に丸井の2店目が開店して本館となり既存店は別館となった。ふりかえると、横須賀の中心商業の発展は三笠ビルに端を発する共同ビル化の歴史と重なる。
横須賀市の指定金融機関は昭和39年(1964)以来、横浜銀行、スルガ銀行、りそな銀行が1年交代で務めている。要するに市のメインバンクはこの3行だ。このうちりそな銀行(当時は協和銀行)と横浜銀行の横須賀支店は元々旭町で隣同士にあったが、それぞれ昭和40年(1965)、昭和50年(1975)に駅前に移ってきた。横浜銀行横須賀支店の移転先には同行若松町支店があった。同店の歴史をひもとくと明治43年(1910)に進出した南総銀行(本店木更津)に遡る。上総、千葉合同から千葉銀行へと変遷し、昭和19年(1944)に横浜興信銀行に営業譲渡された。このとき同行大滝町支店(元の鎌倉銀行)も合流して若松町支店となる。旧若松町支店の店舗が前述の横須賀中央合同ビルに建て替えられたのを機に吸収され、新しいビルに横浜銀行(新)横須賀支店が入った。沼津が本店で神奈川県西部にも地盤を広げるスルガ銀行は、大正7年(1918)に横須賀に進出したときから駅前にあった。駿河銀行と称していた時代、鎌倉に本店を構え横須賀に支店があった日本実業銀行を買収する形で進出を果たす。
現在、横須賀市の最高路線価地点は駅前で変わらない。その一方で市街地の風景は変わっている。平成9年(1997)、駅の西側に「横須賀モアーズシティ」が出店したが丸井や西友は閉店し、緑屋を引き継いだWALKも今はない。さいか屋は元の本館を平成22年(2010)に閉鎖した。西友の跡地には38階建のマンション「ザ・タワー横須賀中央」が建つ。


軍港を活かしたまちづくり

横須賀の街の歴史をひもとく上で在日米海軍の存在は欠かせない。鎮守府・海軍工廠の場所に米海軍が駐留し、その門前町もアメリカ文化の影響を受けるようになった。元町の通りの西端にあった海軍下士官兵集会所は米海軍に接収されて米海軍下士官兵クラブ(通称EMクラブ)になった。旧元町には米海軍の軍人軍属とその家族に向けてスーベニアショップ(土産物屋)、バーやキャバレー等の飲食店やライブハウスが集積。刺繍が目を引く「スカジャン」など新たな特産品もできた。横須賀の中心地は横須賀中央駅周辺に移ったが、かつての中心地の一角を占めた旧元町は日米文化が融合する街、「ドブ板通り」(図4 ドブ板通り)として有名になった。
造船所に始まる横須賀の街は、まもなく帝国海軍が本拠を置く街となり、戦後は米海軍の拠点となった。こうした経緯がドブ板通りをシンボルとする日米融合の文化を生み出している。昭和50年(1975)に発売されたダウン・タウン・ブギウギ・バンド「港のヨーコ ヨコハマ ヨコスカ」(阿木燿子作詞、宇崎竜童作曲)など横須賀を舞台とした歌もあった。横浜の異国情緒、湘南のサーフカルチャーとも異なる独特の世界だ。
近年は、日米の軍港を活かしたまちづくりが耳目を集めている。その好例が日本の「よこすか海軍カレー」とアメリカの「ヨコスカネイビーバーガー」だ。海軍カレーは英海軍を範としていた旧帝国海軍の糧食に着想を得ている。平成11年(1999)、まちおこしの一環で横須賀市が「カレーの街」を宣言した。海軍カレーを名乗るには、料理教本「海軍割烹術参考書」(明治41年、舞鶴海兵団編集)に沿った調理法で、牛乳やサラダを添える等の要件がある。小麦粉を使用した欧風カレーで牛肉か鶏肉が入る。ヨコスカネイビーバーガーは、赤味の多い100%牛肉を肉本来のうまみを損なわないようシンプルに調理する伝統スタイルのハンバーガーだ。平成20年(2008)、米海軍横須賀基地が横須賀市に提供したレシピに基づくことが認定要件となる。
現在、横須賀造船所が造成された横須賀本港は入り江を囲むウォーターフロント公園となっている。入り江の最奥部にはショッピングモール「コースカベイサイドストアーズ」がある。前身は平成3年(1991)に開店した「ショッパーズプラザ横須賀」で当時の核店舗はダイエーだった。ここは旧海軍工廠の一部で戦後接収されたが、昭和34年(1959)に返還され、浦賀船渠(せんきょ)と林兼(はやしかね)造船に払い下げられていた。国道を挟む汐入駅前には横須賀芸術劇場やホテルからなる複合施設「ベイスクエアよこすか」がある。昭和58年(1983)に返還されたEMクラブの跡地を再開発したものだ。オープンは平成5年(1993)だ。
入り江の北面には図2 ヴェルニー公園から見た1~3号ドックのような造船所ドック群が、南面にはドック群の整備に貢献した若き技術者を冠したヴェルニー公園がある。図5 コースカベイサイドストアーズとヴェルニー公園(ティボディエ邸・レストラン)右側の白い洋館は令和3年に園内にオープンした「よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸」だ。ヴェルニー側近が住んでいた官舎を再現した。その後、洋館を借景に木造瓦葺の瀟洒なレストランが開店している。ショッピングモールの目の前の桟橋を出航し入り江を約45分で周回する軍港めぐりクルーズが人気だ。小栗上野介たちが遺した遺産は、おそらく彼らの予想しなかった形で、現代に受け継がれている。


プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)