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路線価でひもとく街の歴史


第45回 「石川県小松市」
旧市街に面で広がる町家の風景

小松といえば歌舞伎「勧進帳」で知られる。舞台の安宅は小松の外港で北前船の拠点となった。小松は、前田家3代利常の隠居城として寛永16年(1639)に建てられた小松城の城下町だが、北國街道の宿場町、加賀絹産地を後背地に持つ問屋町としても賑わった。
町衆の栄華を今に示すものとして、8基の曳山が町内を練り歩く「お旅まつり」がある。本折(もとおり)町の本折日吉神社と浜田町の莵橋(うはし)神社の例大祭で毎年5月に開催される。本折町は北國街道の両側町で小松の陸路の入り口だ。浜田町は道沿いに九龍橋(くりゅうばし)川が流れており、要するに川舟で小松に入るルートである。共催2社が小松の陸路と水路の入り口に立地する点、興味深い。京都の祇園祭と同じく町ごとに山車を出して曳き回す祭りだが、小松の曳山は車上の小屋で歌舞伎が演じられる。役者は町の子供で、8基のうち毎年2基の持ち回りで上演される。今年の当番は大文字町(だいもんじちょう)と京町(きょうまち)だった。
曳山歌舞伎は1766年(明和3)頃に北國街道沿いの龍助町(りゅうすけちょう)と西町(にしちょう)で始まった。他に寺町(てらまち)、大文字町、八日市町(ようかいちまち)、京町、中町(なかまち)、材木町(ざいもくちょう)が曳山を持つ。以前は松任(まっとう)町(まち)、東町(ひがしちょう)の曳山もあったが焼失した。なお曳山8基のうち2基は八日市町の交差点の「こまつ曳山交流館みよっさ」に常設展示されている(図1 曳山)。

京町の銀行街
曳山八町の分布から近世以来のビジネス街がうかがえる。その中心は北國街道と九龍橋川が交差する九龍橋近辺にあった。小松の街は九龍橋を境に北側が橋北、南側が橋南と呼ばれている。九龍橋を渡って小松城側が京町である。京町には銀行が集積した。小松で初めて開店したのは第十二国立銀行の派出所である。明治11年(1878)に開店し明治24年(1891)に撤退したが、閉店に伴って設立された米谷銀行が営業を継承した。米谷銀行は石川県を地盤とする北國銀行の祖である。オーナーの米谷(こめたに)家は北前船問屋を営んでおり、初代頭取の米谷半平は6代目だった。
米谷銀行は明治35年(1902)に金沢支店を出店。大正8年(1919)には金沢支店に本店を移した。その後、大正14年(1925)に七尾銀行、翌15年には松任銀行を合併して加能合同銀行となった。頭取は代替わりした7代米谷半平である。
昭和5年(1930)、加能合同銀行は小松支店を新築する。建物は現存し、石川商銀信用組合の小松支店を経て平成14年(2002)から小松市立空とこども絵本館の絵本館ホール“夢の本棚”となっている(図2 京町の山本久次商店(左)と旧加能合同銀行小松支店(右))。平成15年(2003)に登録有形文化財となった。鉄筋コンクリート造2階建、角に配置された円筒状の塔屋とスクラッチタイルの外壁が特長だ。ちなみに京町通を挟んで向かい側の近代建築は行舎と同じく昭和5年築、鉄筋コンクリート造2階建の山本久次商店である。
米谷銀行が金沢に本店を移した2年後の大正10年(1921)、小松商業銀行、小松共立銀行、三栄銀行の3行が合併して小松銀行が発足した。小松に本店を構える銀行だったが昭和15年(1940)、米谷銀行の後身の加能合同銀行に合流した。3年後の昭和18年(1943)、加能合同銀行は戦時中の一県一行主義に則り加州銀行、能和銀行と合併、北國銀行が発足した。加州銀行は金沢が本店で小松への進出は明治32年(1899)だった。
北國銀行の本店は金沢の武蔵が辻にあった加能合同銀行の本店を継承。小松支店は元の小松銀行本店から引き継いでいる。なお京町の九龍橋側にある北陸銀行小松支店は富山県旧城端(じょうはな)町を本拠とした野村銀行が前身だ。開店は大正5年(1916)で砺波銀行、高岡銀行を経て、昭和15年(1940)に北陸銀行となった。
図3:市街図

70年代まで一等地だった三日市町
石川県統計書によれば明治18年(1885)の最高地価の場所は三日市町だった。戦後の路線価においても、昭和54年(1979)まで最高路線価地点は三日市町だった。昭和48年(1973)に所載された地点名は「三日市町石黒紙店前通り」だ。
三日市町には小松初の百貨店があった。昭和5年(1930)、駅正面の大通りと三日市町の角に開店したマルワ百貨店だ。不運にも昭和7年(1932)の橋南大火で全焼。丸和百貨店にあらため昭和9年(1934)に3階建の店舗を再建した。金沢に本店があった宮市大丸(現・大和百貨店)と提携し取締役支配人を受け入れた時期もあった。戦後、丸福百貨店になったが、昭和34年(1959)の大火で再び焼失。今度は再建されることなく閉店となった。

外縁からターミナルに変わった駅前
小松駅前が発展したのは戦後からだ。駅前が最高路線価地点を獲得したのは昭和55年(1980)。地点名は「土居原町(どいはらまち)山岸履物店通り」だった。土居原町の“土居”とは水害から市街地を守る土堤を意味する。視点を変えれば街の境界線であり、小松駅はその外側にあった。小松駅の開業は明治30年(1897)9月。福井から延伸を重ねてきた官設鉄道北陸線が小松に到達した。
高度成長期にかけて小松駅には2本の私鉄路線が発着していた。1つが大正8年(1919)開業の尾小屋鉄道で、元は小松駅の南西約17kmにある尾小屋鉱山の鉱山鉄道だった。もう1つが北陸鉄道小松線である。前身は明治40年(1907)に開通した遊泉寺銅山専用鉄道で、小松駅から真西に約8kmの遊泉寺銅山に至る路線だった。建機大手の小松製作所(コマツ)の前身、竹内鉱業が経営していた。小松製作所は竹内鉱業小松鉄工所が分離独立して発足した会社である。
駅前再開発に伴う大型店の登場は駅前の景色を一変させた。昭和45年(1970)3月、小松駅前防災建築街区として4階建の「こまビル」が竣工。金沢に本店を構える「いとはん」が核店舗になった。いとはんは後に合併してジャスコになる。こまビル計画に続く小松駅前第2防災建築街区が8階建の尚成ビルだ。昭和50年(1975)12月に完成し、西友ストアが入居した。後に百貨店に業態転換し「小松西武」となる。鉄道が石川県南部一帯から人を集めて繁盛した中心商業だったが、大型店の登場でその核が駅前に移ってきた。

郊外化をもたらす屈指の乗用車普及率
平成に入ると車社会の波が押し寄せる。既に昭和45年(1970)には官公庁等の郊外移転が始まっていた。小松空港から九龍橋川と並んで走る空港軽海線(国道360号線)と旧8号バイパス(現・国道305号線)が交わる園町交差点の近辺に郵便局や商工会議所が移転した。昭和52年(1977)に尾小屋鉄道は、昭和61年(1986)には北陸鉄道小松線が廃線となった。
ロードサイドの大型店は平成元年(1989)、園町交差点近くに出店したアル・プラザ小松が始まりである。1,600台分の駐車場を擁していた。核店舗は平和堂だが、地元商店が立ち上げた協同組合コミュニティショッピングプラザとの共同出店だった。
次は、平成3年(1991)に開店したジャスコブロードタウン新小松(現・イオン小松店)である。こまビル内の店舗が小松店なので郊外店は“新”小松店となった。もっとも駅前の小松店は翌年の平成4年(1992)に閉店したので、1年前後するが実質的な郊外移転だ。
平成4年(1992)に西武百貨店の経営になった小松西武は、駐車台数が60台と少ないことがネックとなり郊外店の攻勢を受け売上が急減した。赤字が累積し、平成8年(1996)12月には閉店を余儀なくされた。郊外移転したジャスコに続き、駅前に2店あった大型店が無くなり、中心街の人通りが途絶えてしまった。
平成10年(1998)、小松西武が撤退した後の尚成ビルを大和百貨店が譲り受け、出店することとなった。駐車場不足が課題だったため、隣地に駐車台数312台、7階建の立体駐車場を市の支援で整備することが要件となった。開店効果で駅前の人通りはいったん持ち直す。平成16年(2004)、周辺整備の一環で小松駅が高架駅となり、広場に面して県立ホールができた。
もっとも持ち直しの動きは続かなかった。店舗の耐震化対応に迫られる一方で売上低迷に歯止めがかからず、開店から12年後の平成22年(2010)に大和が撤退。再び空きビルとなった。そもそも小松市は全国屈指の車社会である。軽自動車を含む都市別の自家用乗用車の世帯普及率をみると平成9年(1997)から平成16年(2004)まで全国で2番目に高かった。順位は下がったとはいえ直近の令和4年でも11位だった。世帯当たりの台数は1.624台である(図5 小松市の自家用乗用車の普及状況(軽自動車を含む))。
図4:広域図

面で広がる町家の風景
北陸新幹線の延伸開業を来年に控える小松駅の駅前だが、今年の路線価は前年比横ばいだった。同じく延伸開業を迎える福井駅前がこの7年で3割高となったのに比べ小松駅前の反応は鈍い。
駅前の路線価がm2当たり11万円なのに対し、イオンモール新小松の前の通りが7.2万円、アル・プラザ小松の近くの園町交差点が6.3万円だった。かつて最高路線価地点だった三日市町石黒紙店前は3.2万円、近隣の龍助町が4万円である。八日市町や三日市町のアーケード街はシャッターを閉めた店が多く、歩けば肩が触れ合ったと言われる全盛期の面影はない。
閑散とした印象の旧市街だが、アーケード街以外の旧市街はかえって本来の魅力を取り戻した面もある。平成18年(2006)に小松市が旧市街34町の建物2,713軒を調査したところ約4割の1,086軒が町家であることがわかった。もっともその半分弱は町家でも正面を箱型に覆った「看板建築」だった。多くは昭和5年、7年の大火以降の建物だが、歴史的街なみで観光客をひきよせる金沢市街に比べても町家の密度が高い。調査を受け、市は町家の保全と再生に乗り出した。
街を歩くと、「こまつ町家認定」という表札が目に留まる。平成20年(2008)に始まった制度で、小松に伝わる建築様式を持つ町家を市が認定している。切妻屋根の山折り線の棟木が道筋に並行し、玄関が道側に設けられた「切妻平入り」構造であること、1階部分の屋根(下屋(げや))があることが必須要件だ。虫籠(むしこ)と呼ばれる格子窓、長い軒先を作るため腕木を棟からはみ出させ棚状に形成する船枻(せがい)もこまつ町家の特長とされる。町家風に仕上げた新築建物でもよく平成28年(2016)まで127軒が認定された。
平成21年(2009)、小松市は「小松市景観条例」を制定。景観計画において、旧市街のうち曳山八町のエリアを伝統的景観重点地区に定め、歴史的街なみに向けた修景を進めている。町家の修繕や復元に要する費用の一部を助成する制度も始まった。看板建築の外殻を取り除き町家本来の姿に戻すことも支援の対象だ。
町家の割合が6割を超えるエリアもあり、このうち景観まちづくり協定が締結できたところは「景観まちづくり重点地区」に指定された。材木町と、龍助町・西町のうち北国街道沿いの部分である。一段の支援を受ける代わりに、「曳山」が似合う通りというコンセプトの下、新築や改築の際には伝統的な建築様式を取り入れる配慮が求められる。取り組みの結果、先行して締結された材木町界隈は最も町家の集積が進んだ観光名所となった。龍助町、西町の修景も進んでいる(図7 龍助町の街なみ)。両町を貫く旧北陸街道から電柱が無くなり、歩道が整備された。
龍助町、西町、材木町を中心に、町家風景が面的に広がっているのが小松の特長だ。金沢のひがし茶屋街のようなエリアを区切った町家集積とは異なる魅力を持つ。閑散としている分、旧市街そのものが観光資源に変化しつつある。
駅前も商業から教養・エンターテインメントの拠点に変わった。平成29年(2017)12月、大和百貨店の跡地に8階建の複合施設「Komatsu(こまつ) A×Z(アズ) Square(スクエア)」が完成した。跡地は4年前に小松市が取得していた。3階の低層棟の2~3階には公立小松大学が入り、4階以上はホテル棟となっている。令和5年3月、駅前のホールの通称名が「團十郎芸術劇場うらら」となった。歌舞伎俳優の市川團十郎が名誉館長である。曳山を介して伝承される町衆文化に対し、こちらは劇場で演じられる伝統芸能だ。“見る”文化と“実践する”文化の両輪がこまつ町家の都市景観を背景に一体化している。
図6:概念図

プロフィール
大和総研主任研究員 鈴木 文彦
仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)