財務省 採用案内 2013
30/58

Career Path 入省3年目に、米国NYのコロンビア大学ロースクールに留学し、NY州の司法試験を受けた。特に深い野望は無かったが、米国の奥深くを垣間見たくて、受けた。マンハッタンのクリスマスの時期に模試を受けるのは辛かったし、同室で受験していたケネディ大統領の子息に女性受験者の視線が集中したのも寂しかった。苦しかったけど、受かって良かった。米国人は、役人もビジネス界の人も、法曹出身の人は多い。話をしているうち、この東洋人が同じ試験で苦労をしたということが分かると、急に仲間の視線になる。 お蔭で、アメリカで仲間が増えた。 留学から帰国して、国際金融局のサミットやG7、IMFの担当係長になった。それを待っていたかのように、湾岸戦争が始まり、旧ソ連が崩壊した。日々予期せぬ事態に対応する傍ら、時折、ニワカ通訳を命じられた。ある日京都御所で、ガイドが、IMFの幹部(フランス人)に対し滑らかな日本語でこう説明した。「いにしえの時代におきましては、こちらの石のテーブルの上に亀の甲羅を置きまして火であぶり、ひびの入った方向で取れたお米をお供えしたものでございます。」一瞬の静寂。通訳を促すIMF幹部の微笑。居並ぶ私の上司は、手に汗握って押し黙っていた。 お蔭で、度胸はついた。 1993年から3年間、米国ワシントンのIMFに出向した。国際機関は、世界中から来ている職員と共に働ける。ラトビアの人とも、シエラレオネの人とも一緒に仕事をした。日本の常識が世界の非常識であることは、ドイツ人に無理やり野球のルールを英語で教えて一緒に野球をやってみて分かった。ある日、キルギスタン出身の男に、「俺の尻にも蒙古斑がある。俺とお前の連帯の証だ」と言われた。証を確かめ合おうと言われる前に話題を変えた自分が情けなかった。 お蔭で、国際的な相互理解のための距離感が、少し分かった。 1996年から3年間、予算編成を担当する主計局で仕事をした。1997年、証券会社の破綻やアジア通貨危機が発生し、予算編成は激烈な勤務環境を強いるものとなった。みんな疲れ果てていた。こういう時こそ、同僚後輩を可愛がらねばならない。ある後輩が、留学の推薦状を書いてくれと言う。この男は、先輩の物真似をその本人の前でやるひどい男だったので、私は「物真似の上手な男は知的好奇心が強く、真理を探究出来る」という、胸に迫り来る熱い推薦状を書いた。その論理構成や格調の高さで私の生涯最高の英文となった。その後輩は無事合格した。 お蔭で、組織で働く幸せに浸った。コロンビア大学留学財務省職員のキャリアパス 東京は坂が多い。歩みを進めて下り坂になったら、しめたものだ。そのうち上り坂になる。坂が上りに差し掛かるあたりは雨水を集める谷筋で、ひと昔前は小さな川が流れていた筈だ。今は暗渠に違いない。右手に折れて暗渠を遡り源流の寺に行けば、今でも湧き水があるかもしれない。左手を下り、いつしかデパートのA館とB館の間を通れば、両館の地下連絡通路が無いのはこの暗渠のためか、と膝を打つかもしれない。 こうして坂道1つで想像力を駆り立てられ、動かずにいられなくなる人は、財務省に入れば更に幸せは深かろう。日々様々な現場で発見があり、刺激に満ちた仲間との議論があり、そして、それを日本のため、世界のために活かす機会がある。 私が財務省に入った1986年以降に見て、考えて、動いたことを記したい。step.1step.2step.3step.4国際金融局IMF(国際通貨基金)主計局29財務省でのキャリアを振り返って~現場を見る、考える、そして動いてみる。大矢 俊雄国際局為替市場課長[昭和61年入省]

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です